vol.29 幻の『ビルマの竪琴』をめぐって 映画監督 田坂具隆と戦争
2025.09.09(火曜日)

スタッフコラム「フォーカス」へ、ようこそ!当コラムでは、日活作品や当社が関連する事業などに従業員目線で"焦点(フォーカス)を当て" 様々な切り口でその魅力をお伝えします。

2025年は終戦80周年。これを記念して『ビルマの竪琴 総集篇』を4Kデジタル復元し、初のUHDブルーレイとして8月6日にリリースしました。本作は竹山道雄の同名小説を市川崑監督が1956年に映画化し、第17回ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞等を受賞した不朽の名作です。

実は『ビルマの竪琴』はそれ以前に、田坂具隆監督による映画化が新東宝で進められていました。残念ながら実現には至らず、今では脚本だけが残されています。幻に終わった田坂監督の『ビルマの竪琴』はどのような映画になるはずだったのでしょうか。残された脚本をもとに、映画評論家の吉田伊知郎さんに読み解いていただきました。田坂監督と戦争、映画化されなかった理由、市川版との脚本読み比べなど、『ビルマの竪琴』の理解が深まる内容になっています。どうぞお読みください。


『ビルマの竪琴 総集篇』4Kデジタル復元版 Ultra HD Blu-ray(4K Ultra HD Blu-ray+Blu-ray 2枚組、特別限定ブックレット「市川崑監督直筆資料集) ©日活

幻の『ビルマの竪琴』をめぐって   映画監督 田坂具隆と戦争

文:吉田伊知郎(映画評論家)

映画になった『ビルマの竪琴』といえば、1956(昭和31)年と1985(昭和60)年の2度にわたって市川崑が映画化した作品を指すことになる。

1955(昭和30)年、市川が、それまで所属していた東宝から日活へ移ったのは、『ビルマの竪琴』を映画化したい一心からだった。この年の『報知新聞』(10月13日)に、「この四年間、映画化を心のなかに暖めて来ました。この映画化権が日活の高木雅行プロデューサーが持っているというので思惑抜きに日活にとびこんで来たわけです」と市川は語っている。

だが、実はそれ以前にも、幻の『ビルマの竪琴』が存在した。それが1950(昭和25)年から1952(昭和27)年にかけて映画化が準備されていた田坂具隆監督によるバージョンである。もっとも、これは1コマたりともフィルムは回っていない。脚本だけが残された未映画化作品である。しかし、田坂は映画化に情熱を燃やし、具体的に中身についても検討されていた。それがなぜ中止となり、市川による映画化は実現したのか。

市川が日活に籍を置いた1955年は、田坂も古巣となる日活へ復帰しており、『ビルマの竪琴』の映画化を熱望する2人の監督が、日活にいたことになる。

戦前の日活で映画界に第一歩を記し、大ヒット作を作ってきた巨匠である田坂は、日活とは縁が深く、キャリア、評価の面でも一日の長がある。その気になれば、我こそが『ビルマの竪琴』を撮るのに相応しいと上層部に談判することも出来ただろう。

情熱を注いだ田坂の『ビルマの竪琴』はなぜ潰えたのだろうか。

 
写真左:田坂具隆監督 写真右:市川崑監督 ©日活

竹山道雄と『ビルマの竪琴』

1946(昭和21)年夏に児童雑誌『赤とんぼ』の依頼を受けた竹山道雄は、『ビルマの竪琴』の第1話を執筆するが、掲載は翌1947(昭和22)年の3月号まで待たねばならなかった。『「ビルマの竪琴」をめぐる戦後史』(馬場公彦 著、法政大学出版局)によれば、占領軍による民間検閲支隊(CCD)によって「校正刷りの戦争の場面を描いた各所に部分削除の指示が下された」ものの、『赤とんぼ』の編集者による努力で全文掲載にこぎ着けたという。そこから少し間が空いて、9月号から翌1948(昭和23)年2月号まで断続的に掲載され、計7回で完結した。物語を眺めておこう。


市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年) ©日活

ビルマ戦線で戦う兵隊たちのなかに、〈うたう部隊〉として知られた一団がいる。隊長が音楽学校を出たばかりの若い音楽家だった影響で、歌と共に苦楽をともにしていた。そのなかの水島上等兵は、隊に入ってから初めて音楽に触れたが、才能があったらしく、みるみる上達していった。水島はビルマ人が弾く竪琴を見様見真似で竹を曲げて作って楽器にしていた。

やがて敗戦となり、部隊は英国軍の捕虜として、収容所へ移されるのを待つ身となった。そのとき、隊長から水島に相談が持ちかけられる。遠方に見える三角山へ日本兵が立てこもっていて降伏を拒絶しているという。このまま行けば英国軍の総攻撃によって全滅しかねない。隊長は、自分の部隊から使いを出すので説得に当たらせてくれと英国軍に頼んだという。隊長が使者として頼りにしたのが水島だった。覚悟を決めた水島は三角山へ向かう。

部隊は収容所へ移され、水島が帰って来るのを待っていたが、3ヶ月を過ぎても消息が伝わってこない。ある日、収容所の外へ橋の修繕に駆り出された部隊は、橋の上で水島と酷似したビルマ僧と遭遇する。あまりにも似ていることに一同は驚くが、どうやらこの僧は、収容所が置かれた町で托鉢をしてまわっているらしく、頻繁に顔を合わす。ときには冗談めかして「水島!」と呼びかけることもあったが、その僧はおびえたように、こちらを見ているだけだ。

水島についての情報が、三角山にいた兵隊から伝わってくる。あのとき立てこもっていた部隊は水島の説得によって全滅せずに済んだが、激しい銃撃戦の中を動き回っていた水島がどうなったかは不明だという。その兵隊によると、そこで死んだと思われるという。弾に当たって倒れるところを見たという情報もあった。どうやら水島の死亡は確定的らしい。やがて、捕虜たちの帰国が実現することになった。一同は喜ぶが、気にかかっていることがあった。あのよく似た僧侶は、本当に水島ではないのか――。
 


市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年) ©日活

連載終了後、中央公論社から「ともだち文庫」の一冊として刊行された本作は、毎日出版文化賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞。その後も長く親しまれることになる。

こうした作品に、映画化を模索する動きが出てくるのは昔も今も変わらない。最初に手を挙げたのは、新東宝だった。監督に予定されたのは田坂具隆。なぜ、ここで田坂の名が挙がったか。それを知るには、田坂の映画人生を知っておく必要がある。

映画監督 田坂具隆

1902(明治35)年生まれの田坂具隆は、1924(大正13)年に日活大将軍撮影所へ入社。溝口健二らの助監督を務めたあと、23歳のときに『かぼちゃ騒動記』(1926)で監督デビュー。そこから遺作となる『スクラップ集団』(1968)まで、足かけ40年の映画人生を歩むことになる。

山本有三原作の『真実一路』(1937)などを手がける田坂の名声を高めたのは、〈戦争映画〉だった。中国の村を占拠した小隊が一時の休息を楽しむ日常生活を丹念に描いた『五人の斥候兵』(1938)に続いて、『土と兵隊』(1939)では泥にまみれて戦う悲壮感あふれる姿を映し出したが、当局から、リアリズムの度が過ぎると解釈され、まるで苦戦しているようではないかとクレームがついたほどだった。


写真左:『五人の斥候兵』 写真右:『土と兵隊』©日活

1942(昭和17)年、日活を退社した田坂は松竹京都撮影所に移籍し、内閣情報局の嘱託となっていた。映画監督としては唯一人の起用だったが、これは前述の戦争映画を国家が評価していたことの証左であろう。実際、1943(昭和18)年には、開戦2周年を記念した海軍省後援、情報局国民映画として大々的に製作された『海軍』(1943)の監督を務めている。敗戦が色濃くなりつつあった1945(昭和20)年には、松竹・東宝・大映共同製作の大作『神風特攻隊』の準備に取り掛かっており、田坂は戦意高揚映画を担う第一人者として遇されていた。

だが、『神風特攻隊』の準備中に43歳を迎えた田坂は招集され、故郷の広島第二部隊第八中隊へ入隊することになる。国策映画に協力してきただけあって、海軍の手回しで、出頭さえすれば即日帰郷する手筈が整えられていた。ところが海軍と陸軍の連絡不備なのか、しばらく入隊せざるを得ない状況になる。陸軍では同部隊出身の軍神鷹見中佐の伝記映画を企画しており、田坂が入ってきたのを幸いに、脚本を担わせることにした。こうした事情から、田坂の除隊日は8月1日まで伸びてしまう。さらに事務手続きの関係で10日まで延期されることになったが、これが田坂の運命を大きく変えることになる。

8月6日は、朝から日差しが強かった。午前8時すぎ、田坂は便所に入ろうとしたが、自分の部隊の便所は直射日光が入って暑いため、別の隊の便所に向かった。ここは日陰にあるため、熱がこもらない。8時15分、一瞬の閃光のあと、田坂は爆風と共に闇の中に没した。便所はたちまちのうちに倒壊し、崩れ落ちた屋根の下に埋もれる格好となった。どうにか這い出し、営庭に集まったのは180人いた中隊のうち、わずか20数名にすぎなかった。街に出た田坂は、地獄絵図のような光景を目にする。焼けただれて歩く人々がいつの間にか列をなし、一方向に向かって進んでいく。呆然としたまま、その後に続いた田坂は、ふと我に返る。長く続く列の先に炎が立ち昇っていたのだ。我に返った田坂は反対方向へと逃げ、どうにか命拾いした。この被爆体験は、田坂の後半生についてまわることになる。

敗戦を経て、広島の父の隠居宅へ身を寄せた田坂の体調は、悪化の一途をたどった。原爆の閃光を直接浴びはしなかったものの、投下直後の広島の街を歩いたことから、典型的な原爆症の症状を見せていた。一時は危篤にまで陥るが、どうにか持ち直し、1949年まで入院することになる。

この年、田坂は旧知の永田雅一大映社長の誘いに応じて大映へ移籍する。戦後最初の作品でもある復帰作『どぶろくの辰』(1949)を撮るが、スケールの大きな映画を病み上がりに撮るのは難しく、共同監督を付けたものの封切り日に追われ、遂には未完成のまま上映されるという事件になる。田坂は、それを良しとせずに封切り後も撮影を継続し、完成版のフィルムが今も残されている。戦後復帰第2作となるホームドラマ『雪割草』(1951)に続いて手がけた『長崎の歌は忘れじ』(1952)では、長崎の原爆を劇中に取り入れている。

その後は製作を再開した日活と本数契約を結び、古巣へ籍を戻した田坂は『女中ッ子』(1955)、『陽のあたる坂道』(1958)と作を重ねる度に調子を取り戻した。東映に移籍後は、『ちいさこべ』(1962)、『五番町夕霧楼』(1963)、『冷飯とおさんとちゃん』(1965)等々、次々に傑作を撮り、戦後の最盛期を迎えた。松竹で撮った『スクラップ集団』(1968)が最後の作品となったが、その後も、各社のプロデューサーや、かつて助監督を務めた監督たちから、もう1本という声が寄せられたが、健康上の問題を理由に首を縦に振ることはなかったという。1974(昭和49)年死去。享年72。


写真左:『女中ッ子』 写真右:『陽のあたる坂道』©日活

戦争映画と戦争責任

田坂具隆の作風と人柄は、〈誠実〉と言い表されることが多い。実際、巨匠らしからぬ温和な性格で、東映京都撮影所で『親鸞』(1960)、『ちいさこべ』を撮ったとき、助監督についた中島貞夫は、スタッフにも丁寧に接する田坂の誠実な人柄に惹かれたと語っている。それを表すエピソードがある。

あるとき、主演の中村錦之助が二日酔いで遅刻してきたことがあった。スター俳優のそうした振る舞いに注意する者は誰もいなかったが、エキストラが待っている中を悠々とやって来た錦之助に、田坂が珍しく厳しい注意を与えた。待たせているエキストラに申し訳ないというのだ。錦之助は以降、誰よりも早く現場に入るようになり、田坂を敬愛し、以降も代表作を共に作っていくことになる。

日活でデビュー間もない時期に、『乳母車』(1956)、『陽のあたる坂道』などで田坂の作品に出演した石原裕次郎も、田坂は心を許せる数少ない大人だったと語る。

「田坂さんは、いちばん僕を理解してくれた。(略)大人の眼でぼくらのことを包むように見てくれた」「田坂さんは普通の人間としての僕がそこに居れば満足して下さった。『台本、絶対持ってくるな、台詞憶えてくるな』って言われた。『前もって便所で憶えるようなこと、お前さんしちゃ駄目だ。暗記しちゃ駄目だ。だけどいろいろな本は読みなさい』――ものぐさなぼくにはピッタリで今だにそれを実行しているんですけど、市川崑さんあたりは、俺が台本持っていかないと怒るんですよ(『石原裕次郎 そしてその仲間 〈シネアルバム100〉』)


田坂具隆監督と石原裕次郎(『若い川の流れ』スナップ) ©日活

田坂もまた、こうした若い俳優たちを好んでいたようだ。戦前から旧知の映画評論家・岸松雄が、よく裕次郎の映画にそんなに力を入れられるものだと冷やかすと、声を潜めて、「ぼくはね、いまの老人より若い人のほうが好きなんですよ」と答えたという。

こうした人柄が、「大多数の日本人が、日本の民衆がおかした錯誤を、彼は最も誠実に、或る意味では最も鮮やかに演じてしまったのではなかろうか」(『田坂具隆・愚直の陥落』[『文學界』99年10月号])と、映画・文化史家の田中眞澄は指摘する。戦時下に映画を通じた戦争協力へ積極的に貢献した随一の映画監督という評価を得たのは、誰もが誠実という田坂の資質が影響しているのではないかというのだ。

もちろん、戦時中の映画監督は多かれ少なかれ、戦争への協力を行っている。『五人の斥候兵』『土と兵隊』という名作を立て続けに撮った田坂を、国家が目をつけるのは当然とも言える。拒絶することも難しかったに違いない。その誠実さによって、国策映画に邁進し、そして原爆に遭遇し、九死に一生を得ることになった。


『土と兵隊』撮影風景。左端が田坂監督。 ©日活

被爆者として後遺症に苛まれつつ、戦争協力者としての自らをどう裁定するかが、戦後を生きる田坂にとって大きな命題だったのではないか。実際、『長崎の歌は忘れじ』について田坂は、「被害者としてそれを直接描くことは到底できない。これを映画に再現しても映画の上の誇張になるばかりで、(略)原爆を受けた人間のその後の生き方を描くことしか方法がありません。戦争に協力した者の一人として世界にその罪をわび、その苦しみを受けた身としての反省と生き方を考える」(『キネマ旬報』60年12月増刊号)と述べている。

戦後、田坂は『はだかっ子』(1961)、『ちいさこべ』で子どもたちを丹念に描き、優れた作品となったが、それぞれ時代設定こそ違えども、そこに第二次世界大戦によって親を亡くし、家を焼け出された戦災孤児たちの姿を重ね合わせることは容易い。前出の田中は、『田坂具隆・愚直の新生』(『日本映画は生きている 第五巻 監督と俳優の美学』)のなかで、これらの作品が、「心ならずも戦争に加担した善意の映画作家は、子供たちに導かれて、己れの罪を裁き、無辜の世代に未来を託すことで、あるべき庶民・民衆へと回帰し、倫理的に再生した」(原文では“あるべき”に傍点が打たれている)と解いた。

こうした戦後の田坂の言動を踏まえて作品履歴を見ていけば、『ビルマの竪琴』を映画化しようとしたのは、極めて当然の振る舞いに思える。幸い、脚本ならびに、田坂の手による演出プラン台本が残されており、どのような映画を構想していたか、ある程度は見通すことが出来る。田坂は『ビルマの竪琴』で何を描こうとしたのか。そして後に映画化された市川崑監督版と何が違うのかを見ていきたい。

田坂具隆監督✕澤村勉脚本『ビルマの竪琴』

田坂具隆を監督に立て、新東宝が『ビルマの竪琴』の映画化を進めていることが公になったのは、1950年のことだった。ちょうど田坂が大映に籍を置いた時期ではあったが、これは新東宝の若手プロデューサー・井内久から要請を受けた企画だった。この時期、新東宝では小津安二郎、溝口健二ら他社のベテラン監督たちを招いて大作を任せており、田坂がその中の1人に入っていることはキャリアからしても当然だった。

『どぶろくの辰』で復帰したばかりの田坂は、体調が万全とは言えなかったが、脚本作りが始まった。執筆にあたったのは、『海軍』でも組んだ澤村勉である。完成した映画のみをたどれば、田坂と澤村は『長崎の歌は忘れじ』でコンビを再開し、その後は日活の『乳母車』、『今日のいのち』(1957)でも組んだことになっている。だが、実際は戦後間もない頃から田坂の監督復帰作に向けて活動を共にしており、東宝のプロデューサー・森岩雄の勧めで1948(昭和23)年には『心の真珠』を共同で執筆している。これは、後に大映で製作された『長崎の歌は忘れじ』の原型になったもので、戦時中に病死した日本人捕虜から未完成曲を託されたアメリカ人の作曲家が、戦後に長崎を訪れて病死した彼の家族を探すというヒューマニズムにあふれた物語だった。

そして、『心の真珠』と前後して、田坂✕澤村コンビが次に取り掛かったのが『ビルマの竪琴』だった。


写真左:『乳母車』 写真右:『今日のいのち』 ©日活

現存が確認されている田坂版『ビルマの竪琴』の脚本は3種類ある。筆者は以前、そのうちの1種を落手していた。それは横縞の背景に白文字で題名が書かれたもので、表紙の左下に「SHINTOHO」の文字をみとめることが出来る。脚本は澤村が単独でクレジットされており、シーン数は162、全体で140頁ある。どうやら、これが最初に製本されたものらしい(以下、「澤村版脚本」と呼ぶ)。

2種類目は表紙の左側に緑文字で題名が書かれ、右には竪琴を弾くビルマ人の少年が描かれている。これは国立映画アーカイブの展示で眺めただけなので、内容は不明である。

3種類目は、デザイン的には2種類目に近いが、表紙の右側に題名があしらわれ、中央部分から左側にかけて竪琴のみが描かれている。こちらも国立映画アーカイブに所蔵されたものでしか見ることが出来なかったが、調布市立図書館に所蔵されていることが判明したため、読むことが出来た。こちらは従来の脚本とは様相を異にし、横書きでト書きが書かれており、全体が四部に分かれている。シーン数は263。カット割りや構図も指定されており、随所に演出の指示が書き込まれている。音楽や歌が、どこから流れ始めて、どこで終わるかも厳密に指定されており、いわば田坂による〈演出台本〉というべき内容である(以下、「演出プラン台本」と呼ぶ)。

もっとも、この「演出プラン台本」は、最初に「これは完全な演出台本ではありません。脚本から具体的準備にはいるための参考として提出された机上の演出構成であります」と記されており、スタッフとイメージを共有するための叩き台のようだ。こうした点からも、田坂がこの題材に並々ならぬ思い入れがあったことがうかがえる。

以下、「澤村版脚本」「演出プラン台本」を突き合わせながら内容を見ていくことにする。


「演出プラン台本」の冒頭を飾る田坂監督による文章。

冒頭、“ビルマの竪琴”という題字が遠ざかると、それが本の表紙であることが分かる。頁がめくられると、油絵の具で描かれたビルマの風景が映し出される。その絵の中に1人の日本兵が現れて、絵と活字の上を歩いて回り、腰を下ろすと観客に語りかける。
「一九四三年から四年ごろ、私達はビルマに居ましたが、その間『唄う部隊』と云はれた程毎日歌の練習をしていました」

そこから、原作の冒頭部分に書かれた部隊についての説明が、この兵士の口を通して語られる。この油絵はその後もしばらく活用され、湖のほとりで50人ばかりの兵隊たちが合唱している場面も、絵との合成で処理される。ここで隊長の草野中尉(原作には隊長の名前はない。後年の市川崑版では、井上と命名されていた)が登場し、竪琴を弾く水島上等兵も顔を出す。

以降のジャングルを横断する部隊の描写も合成で処理されることになっており、ビルマロケが困難であるため、合成で処理される場面が多く作られているようだ。


「澤村版脚本」(画像左)と「演出プラン台本」(画像右)の<シーン1>部分

歌合戦〜『埴生の宿』vs.『ホーム・スイート・ホーム』

最初の見せ場となるのは、日本兵と英国兵が歌を通して交流する場面だ。

国境の村に入った部隊が、ニッパハウスの中で村人たちに合唱を披露して宴を楽しんでいると、いつの間にか村人の姿が消えている。英国兵に村を包囲されていたのだ。隊長が偵察に出ている間、水島は竪琴で『埴生の宿』を弾いて注意を逸らす。すると、森の中から英語で『ホーム・スイート・ホーム』の歌声が聞こえてくる。水島の奏でる竪琴の伴奏に合わせて歌っているのだ。日本兵たちも日本語で『埴生の宿』を歌う。ここで歌を介してコミュニケーションが取れたことで、戦うことなく、日本の敗戦を知ることになる。

この〈歌合戦〉場面は、『カサブランカ』(1942)のカフェの場面で、『ラインの護り』と『ラ・マルセイエーズ』を対抗して唄う場面と双璧の名場面だが、『カサブランカ』では異民族、異文化が相容れないことを象徴する使い方だったが、『ビルマの竪琴』では、人種や言語が違っても、歌によって分かりあえることを示す感動的な場面となっている。

田坂はこの場面について、英語と日本語の歌が重なり合うよう指定しており、台本の演出メモには、それが難しければ、一小節ずつそれぞれが歌う形でも良いと書かれている。その場合は、歌っている方と聴いている方がどのような態度を取るべきかも書き込まれている。


「演出プラン台本」の歌を通して交流する場面。左ページに英語と日本語の合唱に関するメモがある。

音楽の見せ方が細かく指定されている理由は、メモへ以下のように書かれている。

これは長いシーンとなるであろうがcutを割らないでかまわず押して行く/歌から来る感情を第一義のものとし双方は猜疑や警戒の動作を少しも現はさず唄ふ境地と歌から来る感情にひたすら没入している

本作が通常のドラマのスタイルとは異なる音楽映画であることが、この辺りから明瞭になる。
歌の交歓が最高潮に達する場面は、原作ではこう記されている。

こうなるともう敵も味方もありませんでした。戦闘もはじまりませんでした。イギリス兵とわれわれとは、いつのまにか一しょになって合唱しました。両方から兵隊が出ていって、手を握りました。ついには、広場の中央に火をたいて、それをかこんで、われらの隊長の指揮で一しょにこれらの曲をうたいました。

部隊の面々は、インド兵やイギリス兵と互いの家族の写真を見せあったり、歌い合ったりする。そして、この章の原作の末尾は、次のように結ばれる――「この夜、われわれはもう三日前に停戦になっていたことを知りました。イギリス軍はあくまでも凶悪だと思っていたわれわれにそれを知らせる法もなく、残敵掃蕩のためには、ことによったら殲滅もやむをえない、と思っていたのでした。われわれは武器をすてました」。

後に、市川崑が和田夏十の脚本で映画化した際は、この場面を、どう描いたか。『埴生の宿』と『ホーム・スイート・ホーム』の響鳴を描くところまでは同じだが、英国兵やインド兵と交流する場面は省略され、同じ部隊に属する小林の声で、「その夜、われわれは三日前に停戦になっていたことを知ったのです。われわれは武器をすてました」というナレーションのみで、この場面を終わらせる。感情が最高潮に達するのは歌で十分表現できると判断したのだ。それ以降の交流場面を省略するところは市川作品らしい。


市川崑版(1956)和田夏十脚本。交流場面は省略されている。

一方、「澤村版脚本」では、歌が途切れて不気味な沈黙が支配したところで、英国兵から「武器を捨てろ!」「隊長は何処に居る?」と尋ねられ、草野が出ていく。そこで英国将校から「おめでとう」と手を差し伸べられ、「君は知っているのかね?戦争が終わったことを」と告げられる。その後は、原作と同じく、英国兵、インド兵らとひとつになって歌い、飲む光景が3シーンにわたって続く。


「澤村版脚本」。英国兵、インド兵らとひとつになって歌い、飲む光景が続く。

これが、田坂の「演出プラン台本」になると、過剰さが増す。最後の一小節を歌い終わると、「ワーと云ふ叫び声と共に両方は入りみだれる/争いではない/交歓である/握手するもの/抱きあふもの/各自勝手な言葉でわめきあひ笑いあふ」と書かれており、各国の兵士が交流する様子が細かく書き込まれている。次のシーンで、ようやく将校が草野に停戦を告げており、まさに田坂が記すように、「歌から来る感情を第一義のもの」として演出しようとしている。


「演出プラン台本」。カットを割らず「歌から来る感情を第一義のもの」として演出しようとしている。

音楽映画としての『ビルマの竪琴』

「演出プラン台本」は、前述したように四部構成になっており、部隊が敗戦を知らされたあとは、原作と同じく三角山に立てこもる部隊を水島が説得へ向かう。そして説得の甲斐あって部隊は白旗を掲げるものの、水島は山の斜面を転がり落ちるところで第一部は終わる。

第二部は、捕虜収容所で水島の帰りを待つ部隊を中心に描かれ、水島によく似た僧と遭遇する。

以降も原作に沿った内容だが、田坂による「第三部 第四部は 122場面よりなり、そのほとんどが、音楽を基調にして、七つの段階に分かれ乍ら、描かれて行きます。今、かりにその“七つの感情”を印象づけるために、それぞれの曲の題名をつけてみました。」という断りが最初に記されている。実際、以降の場面は、ほぼ全てに音楽が流れることが、曲の割り振りと共に指定されている。これは、「交響詩“ビルマの竪琴” 早坂文雄作曲」と題されており、その内容は「第一章『手紙』、第二章『はるかなるムドン』、第三章『戦場の壁画』、第四章第一『迷ひ』、第二『黒き舞踏』、第五章『光ありて』、第六章「『死と生』、第七章『終曲』」となっている。

1955(昭和30)年に41歳の若さで亡くなった作曲家の早坂文雄は、『羅生門』(1950)、『七人の侍』(1954)、『雨月物語』(1953)、『山椒大夫』(1954)など、黒澤明、溝口健二の作品で音楽を担っていた。田坂とは『長崎の歌は忘れじ』で組んでいたが、本作はそれに続くコンビ作になる予定だったようだ。映画の前半は、『埴生の宿』『野薔薇』『美しく青きドナウ』など既存曲が指定されているが、後半は早坂のオリジナル曲が中心となる構成になっている。

それにしても、絶えず音楽が流れ続ける後半には圧倒される。映画が進むにつれて、台詞はなくなり、水島の手紙を読む声が挟まる程度になる。まるでサイレント映画における音楽伴奏のようで、無声映画時代からキャリアを形成した田坂は、ここで映画から不要な言葉を消失させ、映像と音楽のみという、映画の原初の風景を取り戻す。


「演出プラン台本」の後半部分。絶えず音楽が流れ続け、台詞はなく、手紙を読む声が挟まる程度となっている。

ラストシーンは、「澤村版脚本」では「書物の一頁」となっており、「手摺りに立って雲をのぞむ兵隊たちを描いた挿絵 その表紙が静かに閉されて――『ビルマの竪琴』と書かれた標題」とあり、冒頭の場面に呼応する形で映画が終わることになっている。

これが「演出プラン台本」では、この場面が具体的にどう映像になるのかが記されている。まず、実写の波と雲が額に収められた油絵となり、その額縁の角に、冒頭の場面で語りかけてきた兵士が腰掛けており、こう語る。

船は毎日ゆっくりと進みました。先へ――先へ――/そして我々は早く日本が見えないかと/朝に夕べに行く手の雲の中をじっとみつめました」

そして、ラストカットとなる。演出メモには、「額縁はそのままで一冊の本の絵となる。本は読み終わった形の裏表紙が出て居り、物語った兵隊がその本の下部の厚さに従って歩き背表紙に廻って奥に消える/その背表紙に「ビルマの竪琴」と読まれる」とある。

田坂は原作の読後感を映画でも再現して幕を閉じる。このとき、音楽は「第七章 終曲」が流れると指定されており、水島が部隊にあてた手紙を書くところから16シーンにわたって、この曲が流れ続けることになっている。そして、最後に映像が暗転した後に「――音楽は10秒ばかり終に残って」と指示が書かれているところからも、音楽映画に相応しい締めくくりが模索されている。


「澤村版脚本」(画像左)と「演出プラン台本」(画像右)のラストシーン

ビルマの歌は忘れじ

新東宝で企画された『ビルマの竪琴』は、その脚本が、1950(昭和25)年3月1日に映画倫理規程管理委員会に提出されている。これは前年に制定された「映画倫理規定」を管理・実施するための映画業界内機関で、現在の映倫の前身機関である。ここでは観客の道徳観の向上、社会秩序の維持、民主主義への正しい理解を妨げる映画の製作を自主的に防止する役割を果たし、映画の内容だけでなく、題名や宣伝にもチェックが及ぶ。殊に国家及び社会、法律、宗教、教育、風俗、性、残酷醜汚に関する箇所は要注意項目となり、憲法を否定する内容や、戦争を肯定したり、法律に違反する行為を称賛したりしていないかなど、多岐にわたって注意を受ける。

5月18日に脚本審査を終えた『ビルマの竪琴』については、水島が部隊の待つ捕虜収容所へ帰らずに、ビルマの各地に残された日本兵の遺骨収集を行う行為に問題があると指摘を受けた。以下は、『映画倫理規程審査報告 (12)』からの引用である。

敗戦となった現在、水島はその身柄を捕虜として収容所に入れられるべき位置にあるものであって、彼のこの決意とそれを実践してゆこうとするこれからの行動は、自然みづからの身柄を脱走として扱われざるを得ないことになる。国際法によれば中立國に脱走入國した場合は自由の身として、自由に行動出来るようであるが、ここでは背景はビルマであり、占領國側に当るから、(略)違法とみない訳にはゆかない。よって、この作品に於けるが如き劇のはこびかたをしてゆくためには、その違法である点を十分考慮し、何らかの配慮を製作者側に求めたいと思う。

これでは、物語の根幹の否定に等しいが、占領下ではこうした過度の自主規制が生じていた。映倫側は、水島が逃亡者であることを自覚しながら慰霊の旅に出ている、あるいは部隊の方でも水島が脱走兵であることを印象付けるなどの処理を取ってはどうかと提案も行っている。

もうひとつ、映倫が注目したのは、本作の歌の数々にあった。前掲紙より引用すると、こう指摘されている。

この作品全体のもつ高貴なヒュマニスティックな狙いは、勿論、よくうなづけるところであるし、原作は読むものとしてそう云う深い感動を人々に与えたものと考えられるが、これがひとたび見るもの、聴くものとしての映画となった場合に、特にこの映画にとりあげられる歌曲の素朴なる陶酔美は、戦争に対するきびしい批判と否定の精神とをいくらかでも弱めるようなことのなきよう、この点特に切望してやまないものである。

戦時中の国民皆唄運動への回帰にならないよう警戒している感もあるが、田坂の音楽を通した平和への純粋な願望は、理解されなかったようだ。

これだけが理由ではないだろうが、新東宝での製作は中止となり、2年後の1952(昭和27)年、田坂が籍を置く大映で再び映画化の話が持ち上がる。『近代映画』(52年4月号)は、「ビルマの現地ロケに関する計画も着々準備がすすめられている。これが実現すれば八月頃田坂監督は、渡航する予定で、この映画の出演者は、今のところ詮衛中だが、新劇関係の俳優が、多数出演することになるらしい」と、具体的な進展状況を記している。

田坂自身も「今年は張り切りますよ。“長崎の歌は忘れじ”と“ビルマの竪琴”と云う、かねてから懸案のものを二本やるんです」(『新映画』52年3月号)と、意気軒昂に語っている。この中で田坂が、「“ビルマの竪琴”にしても、これ(長崎の…)にしても、民族を超えた崇高な人間愛と平和をも求める心をテーマにしていることに変りはない」と語っていることからも、幻となった田坂版『ビルマの竪琴』は、『長崎の歌は忘れじ』と連続性を持つ映画に仕上がっていたことが想像される。

結局、この年に予定されていたビルマ・ロケは、実現が難しくなったようだ。『ソヴェト映画』52年6月号)で田坂は、いささかトーンダウンした様子で、「次回には『ビルマの竪琴』を用意していますが、現下の国際情勢と映画界の経済事情では確定いたしません。私の年齢的な好みがともすれば大衆と離れがちなのを警戒しながら、生きていることの美しさを発見したいと思っております」と語っているが、大映での映画化がこれ以上進展を見せることはなかった。

田坂具隆から市川崑へ

1955(昭和30)年、再び『ビルマの竪琴』映画化の動きが活発化する。今度は日活の製作である。この年、田坂は日活への復帰第1作となる『女中ッ子』を撮っていた。復帰にあたり、「日活では、原爆症に苦斗した田坂具隆監督が、明年度竹山道雄の『ビルマの竪琴』を撮る話もあるという」(『キネマ旬報』54年11月号)とも報じられており、新東宝、大映を経て、日活で実現する可能性があったことがうかがえる。

また、『シナリオ』(56年1月号)の脚本家座談会で、村田武雄が柳沢類寿に向かって、「あなたが以前書いた『ビルマの竪琴』、あれ現在どうなってますか。僕はあれが取り上げられということを聞いたから、あなたが書いた作品だと思ったが、今度のは和田(夏十)さんでしたね」と口にしている。つまり、柳沢が脚本を書いた『ビルマの竪琴』が存在するということだが、現存は確認されていない。柳沢は松竹を経て製作を再開した日活へ移っており、どうやら、市川に監督が決まるまで、日活では何人かが手がけようとしたのではないか。その中に、田坂がいたとしても不思議ではない。

『ビルマの竪琴』製作開始を報じる10月13日の『報知新聞』は、こう記している。

今まで何度となく映画化を伝えられながら原作が題名通りビルマを舞台としているため現地ロケが不可能で実現を見るに至らなかったいわくつきの作品。田坂具隆監督はこの映画化に非常な執着をもっていたが、健康上の理由から断念、代ってこれも四年間映画化を切望し、そのために、この映画化権を所有する日活入りしたと伝えられる市川崑監督によって、懸案の映画化がいよいよ実現

田坂が〈健康上の理由から断念〉したのは、おそらく事実だろう。というのも、『長崎の歌は忘れじ』の後、田坂は再び3年にわたる闘病生活に入っていたからだ。

後年、東映京都撮影所で製作された『親鸞』に助監督で付いた中島貞夫は、「田坂さんの身体の問題で夏休みがありました。(略)朝九時から始まってお昼までやる、お昼食べて一時から始まって、三時になったら三十分ほどティータイム。それからまた撮影。夜間はどうしても夜撮んなきゃいけないもの以外はやんない」(『遊撃の美学 映画監督 中島貞夫』)と、連日の徹夜撮影も少なくなかった量産時代に、田坂の現場では特別な配慮がなされていたと証言している。こうした状況で、負担の大きい海外ロケを行う『ビルマの竪琴』など、とうてい撮れる状況ではなかったのではないか。

前掲の『報知新聞』では、市川崑が田坂の代打監督のように取られかねないが、1955(昭和30)年11月15日の『日刊スポーツ』で、市川はこう語っている。

僕がこの原作を友人にすすめられて読んで感激したのはもう四、五年も前でしたかな? 当時新東宝にいたんですが、スケールが大きすぎるので出来ず、その後は東映でも話が出たらしいですね。結局僕はこれ(ビルマの竪琴)を演出させて貰う約束で日活へ来たんです、だからいいものにしなくてはと僕としては近来になくはりきってますよ

日活へ来るやいなや、市川は『青春怪談』(1955)、『こころ』(1955)を次々に撮っていたが、本命の『ビルマの竪琴』がなかなか正式に製作がスタートしないため、黒人兵士たちの物語『懐しのジョーンズ』(『いとしのジョーンズ』『愛しのジョーンズ』の題名でも報じられた)、ニコライ・ゴーゴリの『外套』『狂人日記』を原作にした『貧乏物語』を三國連太郎と伊藤雄之助の主演で映画化する案(いずれも未映画化)を立てるなど、多彩な企画を準備しながら待っていた。


写真左:『青春怪談』 写真右:『こころ』©日活

ようやく『ビルマの竪琴』の撮影が始まり、念願のビルマ・ロケへ向かうが、それがどれほどの困難の連続だったかは、発売中の『ビルマの竪琴 総集篇』4Kデジタル復元版 Ultra HD Blu-ray(4K Ultra HD Blu-ray+Blu-ray 2枚組)同梱のブックレットへ執筆した拙稿をあたっていただきたい。


市川崑監督『ビルマの竪琴』(1956年)撮影スナップ ©日活

もし、田坂による『ビルマの竪琴』が実現していれば――戦時中に戦争映画の名作を撮ったことで、戦争協力を積極的に担うことになった自身の苦悩と責任、そして自らも被害者となった原爆被害者への鎮魂を作品に重ね合わせていただろう。だが、映画で描かれるものと、作り手の境遇が重なり合うことが理想とは必ずしも言えない。実際、市川崑の『ビルマの竪琴』が持つ客観性と距離感こそが本作を傑作にしたという見方もできよう。

自らの手で撮れなかったことで、これ以降、田坂は直接的に戦争へ言及しない形で、戦後の日本映画に戦争の痕跡を描いてきた。その数々の秀作を目にすれば、そこから幻の『ビルマの竪琴』へ思いをはせるだけで充分ではないかという気もしてくる。

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【参考文献】

『ビルマの竪琴』(竹山道雄 著、新潮文庫)
脚本『ビルマの竪琴』(澤村勉 脚本、新東宝)
演出プラン台本『ビルマの竪琴』(田坂具隆、新東宝)
脚本『ビルマの竪琴』(和田夏十 脚本、日活)

『フィルムセンター 52 田坂具隆特集』
『田坂具隆・愚直の陥落』[田中眞澄、『文學界』99年10月号、文藝春秋]
『田坂具隆・愚直の新生』(田中眞澄、『日本映画は生きている 第五巻 監督と俳優の美学』、岩波書店)
『映画倫理規定審査報告』(国立国会図書館所蔵)

『石原裕次郎 そしてその仲間 〈シネアルバム100〉』(Jパブリッシング)
『遊撃の美学 映画監督 中島貞夫』(中島貞夫 著、ワイズ出版)
『完本 市川崑の映画たち』(市川崑 森遊机 著、洋泉社)
『日活五十年史』(日活株式会社)

『キネマ旬報』『映画芸術』『シナリオ』『映画評論』『近代映画』『映画情報』『時事通信』『新映画』『ソヴェト映画』『報知新聞』『日刊スポーツ』

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販売元:株式会社ハピネット・メディアマーケティング
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<田坂具隆監督、市川崑監督作品情報>
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五人の斥候兵
土と兵隊
女中ッ子
乳母車
今日のいのち
陽のあたる坂道
青春怪談
こころ

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