
1881年、フランス・パリでスウェーデン人の父とフランス人の母の間に生まれる。リセのジャンゾン・ドゥ・サイィ高校で学んだあと、父の経営する会社に勤める。並行して外交官としても活動を始め、1926年には領事の仕事も務めていた父の職務を継いで、パリ駐在スウェーデン総領事に就任する。第二次世界大戦ではスウェーデンが中立国であったため、ノルドリンクはドイツ軍と連合軍との間の調停役を務めるようになる。1944年5月には、ストックホルムに赴き、グスタフ国王と調停計画について議論したが、計画の実現には至らなかった。しかし、フランスのレジスタンスとコルティッツとの交渉において、ノルドリンクは外交官としての才能を十分に発揮した。3,000人以上の政治犯の釈放を実現し、首都パリの破壊を最低限に食い止めた。1951年に総領事を退任すると、レジオンドヌール勲章グランクロワを授与される。1958年にはパリ市から金のメダルを授けられ名誉市民となる。1962年10月1日にパリで死去。1945年に書かれた回想録は、2002年にようやく「パリを救う。スウェーデン総領事の回想録(1905年~1944年)」と題されて出版された。
(写真・左)
1894年、ドイツ・シレジア地方でプロイセン将校の貴族の家庭に生まれる。ドレスデン幼年学校に学び、第107歩兵連隊に配属されて第一次世界大戦に従軍。任務を終えると少尉に昇進する。第二次世界大戦中は、ポーランドやフランスでの軍事行動や、とりわけクリミア半島のセヴァストポリ攻略の際に頭角を現した。1944年7月20日に起きたヒトラーに対する軍事クーデター事件に参加しなかったことが評価されて、パリに送られドイツ駐留軍を指揮することに。この着任中に、コルティッツはレジスタンスとの間の停戦を交渉し、ルクレール将軍の率いる自由フランス軍に降伏した。イギリスの捕虜収容所に収容された後、1947年に釈放。1950年に、「兵隊の中の兵隊」と題された回想録を出版した。1966年にバーデン=バーデンで死去。
(写真・右)

1933年、ヒトラーはドイツの全権を掌握、ヨーロッパ全土への権力拡大を夢見ていた。
1939年9月、ヒトラーはポーランドに侵攻し、その2日後にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告。
1940年6月、フランスとドイツは休戦を締結。ドイツによるフランス支配が始まる。
同年、ヒトラーはパリを訪れその美しさの虜となる。オペラ座、パンテオン、ルーヴル、パリ市法宮、リヴォリ通りの建物の配列を特に賞賛していたと言う。お気に入りの建築家とパリに対する熱意を共有し、「偉大なるベルリン」計画に、パリの調和と荘厳さを取り入れるよう指示した。
連合軍にベルリンが破壊されたとき、自分が「あの娼婦」と呼んでいるパリの街が健在であることに、ヒトラーは耐えられなかった。ドイツ国防軍の反ナチス将校グループが、1944年7月20日に起こしたヒトラー暗殺計画が未遂に終わり、ヒトラーは信頼する数少ない将軍の一人、コルティッツをパリ防衛司令官に任命する。ヒトラーはコルティッツに、パリを死守し、立ち去る際には瓦礫以外残すな、と命じた。
- 8月1日(火)
- ノルマンディーに自由フランス第2機甲師団が上陸。
- 8月15日(火)
- フランス・アメリカ連合軍がプロヴァンスに上陸。パリ警察がストライキに突入。
- 8月18日(金)
- レジスタンスが、抵抗を呼びかけるポスターをパリの街中に掲出。
- 8月19日(土)
- レジスタンスによる最初の戦闘。警視庁の占拠をはじめとし、区役所、省庁、新聞社などが占拠された。ドイツ軍は警視庁を攻撃。ノルドリンクは、コルティッツに警視庁の攻撃を翌日までに中止するよう交渉した。
- 8月20日(日)
- 市街戦が続く。スウェーデン領事館で、停戦の延長交渉とフランス・レジスタンス内での話し合いが行われた。
- 8月21日(月)
- 停戦に背いて市街戦が続く。第2機甲師団の司令官:ルクレール将軍は軍隊をパリに派遣。停戦解除。
- 8月22日(火)
- 自由フランス軍はパリ中にバリケードを設置。ルクレール将軍がパリへの進軍準備を開始。
- 8月23日(水)
- ヒトラーがコルティッツにパリ壊滅作戦の実行を命じる。第2機甲師団はパリに向けて進軍。
- 8月24日(木)
- フランスのラジオが、第2機甲師団のパリ到着を知らせる。
- 8月25日(金)
- ルクレール将軍は作戦室をモンパルナスに設置。自由フランス軍はノルドリンク総領事を通じてコルティッツに最後通牒を送りつける…。