vol.17 藤田敏八監督『リボルバー』裏話
2022.02.18(金曜日)

スタッフコラム「フォーカス」へ、ようこそ!当コラムでは、日活作品や当社が関連する事業などに従業員目線で"焦点(フォーカス)を当て" 様々な切り口でその魅力をお伝えします。vol.17は、今年1月16日に生誕90年、8月29日に没後25年を迎える藤田敏八監督の遺作『リボルバー』(1988年)の企画を担当された角田豊さん(日活 メディア事業部門 編成部員)に当時の思い出を振り返ってもらいました。また角田さんが関わったロマンポルノとロッポニカ作品についても語ってもらいました。



©日活 『リボルバー』


1988/10/22 公開
監督:藤田敏八
キャスト:沢田研二 村上雅俊 佐倉しおり 手塚理美 小林克也 尾美としのり 柄本明
脚本:荒井晴彦
原作:佐藤正午(「リボルバー」集英社刊)
ストーリー:鹿児島県警の巡査部長・清水(沢田研二)は公園で阿久根(小林克也)に背後から頭を打ちつけられ、拳銃を奪われた。阿久根が動物園のゴミ箱に捨てた拳銃を拾った高校生の進(村上雅俊)は、自分を殴った石森(山田辰夫)への復讐を決意し、石森のいる札幌へ向かう。進を追って札幌へ向かったクラスメイトの直子(佐倉しおり)と清水を、清水の婚約者の亜代(手塚理美)も追う。鹿児島で始まったドラマは札幌へと収斂していく。

 

ロマンポルノの最後を見届けて

―角田さんは1986年からロマンポルノに関わられる訳ですが、当時からロマンポルノの最後が近いという意識はありましたか。

角田 はい、そうですね。割と早い時期に、社内には後にロッポニカになる一般映画に関する話があったので。ただその時はロマンポルノはロマンポルノで細々と続ける可能性もあり、私はそっちをやるんだろうと思っていました。

―ロマンポルノに関わることについてはどう思いましたか。

角田 日活にいる以上、一度は関わっておきたかったです。日活に入社して最初は撮影所の企画営業部で2時間ドラマを担当してましたが、企画宣伝部への人事異動提案を受け、このチャンスを逃すとロマンポルノに関わるのは無理だろうなと思いました。

―ロマンポルノに関してはどう思われていましたか。

角田 2時間ドラマの撮影現場の隣で、若い監督、若いスタッフ、若い女優さんでロマンポルノを撮っているのが、すごく羨ましかったですね。明るい現場だなあ、と思って。

―ロマンポルノが終わることはどのように知らされたのですか。

角田 複数の部署から人が集められて新たな「企画部」となり、皆で一般映画をやることになりました。ある段階でロマンポルノが終わる、と。だから我々は同時進行で取り掛かっていた訳です。ロマンポルノの最後の方をやりながら、かたや一般映画のロッポニカも手掛け始めてました。

―ロマンポルノの最後とロッポニカは同時進行だったのですか。

角田 タイムラグはありませんでした。突貫工事で映画館の館名をロッポニカに変えて、すごく大変でした。
※ロマンポルノ最終作『ベッド・パートナー』(後藤大輔監督)と『ラブ・ゲームは終わらない』(金澤克次監督)の公開日は1988年5月28日で、ロッポニカ第一弾『メロドラマ』(小澤啓一監督)と『噛む女』(神代辰巳監督)の公開日は同年7月1日。


©日活 『ラブ・ゲームは終わらない』(1988年 監督:金澤克次 出演:竹田ゆかり 奈良坂敦)

 

―『ベッド・パートナー』と、角田さんが企画を担当された『ラブ・ゲームは終わらない』の2本立てがロマンポルノの最終作になりますが、世の中の反応はどうだったのでしょうか。

角田 その時点ではそんなに大っぴらに公表していなかったのかもしれません。厳密にはそのあと『ザッツ・ロマンポルノ 女神たちの微笑み』(1988年6月11日公開)があり、そこでワンクッション入るので。この2本は新作としては最後で、両作品とも新人監督をデビューさせようということになり、私は金澤克次監督作品を担当させてもらいました。

―劇場には行かれましたか。

角田 もちろんそれは。この頃はさすがに舞台挨拶はなかったかもしれないけど、初日には行きました。画面は見なくてもお客様の反応とかを見ていたと思います。

―客入りはどうでしたか。

角田 良くもなく悪くもなかったです。もうこんなもんだろう、って。何をやろうと、残念ながらそれほど変わってはくれないというか。

―ロマンポルノが終わることに対して感慨はありましたか。

角田 正直、感慨に浸っている暇はなかったです。アシスタント・プロデューサーを担当した『行き止まりの挽歌 ブレイクアウト』(1988年/村川透監督)は、もうこの頃、撮っていたんじゃないかな。そしてその先には『リボルバー』のホン作りが始まりつつあったのかもしれないし。

 

ロッポニカについて

※1988年にロマンポルノに終止符を打った日活は、「ロッポニカ」というレーベル名で一般映画製作を再開した。

■ロッポニカ全タイトル
『メロドラマ』(小澤啓一監督)、『噛む女』(神代辰巳監督)、『行き止まりの挽歌 ブレイクアウト』(村川透監督)、『ころがし涼太 激突!モンスターバス』(黒沢直輔監督)、『悪徳の栄え』(実相寺昭雄監督)、『徳川の女帝 大奥』(関本郁夫監督)、『ひぃ♡ふぅ♡みぃ』(村上修監督)、『妖女伝説 ’88』(田中登監督)、『リボルバー』(藤田敏八監督)、『首都高速トライアル』(金澤克次監督)

 

―ロッポニカ作品にコンセプトのようなものはあったのですか。

角田 特になかったんじゃないですか。一般作か、青春ものみたいな言われ方はしたかもしれないけど……企画を搔き集めるような感じでしたね。『ひぃ♡ふぅ♡みぃ』(1988年/村上修監督)は、当初はロッポニカのラインナップに入る予定ではなくて、でも間に合わないから間をつなぐ……そんな感じだったと思います。

―ロッポニカの終わりはどんな感じだったのでしょうか。

角田 最初は、1年間は頑張れという感じでした。その分のアウトラインを作っていたところ、ある日突然、全員会議室へ集められて、既に完成していた『首都高速トライアル』(1988年/金澤克次監督)を以て、採算が合わないので一旦中断すると。ついては皆さん、進行している企画を速やかに止める作業をしてください。そんな話になり、私も決定稿が上がりメインスタッフまで組んでいた次の企画を急遽止めに走りました。

―どういった作品が進行していたのでしょうか。

角田 私が手掛けていたのはB級アイドルものや金融ものなど色々あったと思います。ロッポニカは10作品で終了した訳ですが、この倍ぐらいいける企画があったんじゃないですか。

―それらの企画は全滅してしまったのですか。

角田 『仔鹿物語』(1991年/澤田幸弘監督)と『落陽』(1992年/伴野朗監督)は残りました。同時進行で進んでいた企画でしたので、ロッポニカとしてやるんじゃないかと思っていました。

―ロッポニカが終わった後はどうなる予定だったのでしょうか。

角田 ブロックブッキングを止めて、製作本数を年何本かに減らす計画だったと思います。映画を全くやめるってことではなかったです。『仔鹿物語』があり、『落陽』があり、たぶんそれ以外にも企画は進んでいたのではないかと思います。

―ロッポニカが終わった時はどう思われましたか。

角田 もっとやりたかったという非常に残念な気持ちがありました。ただお客さんが入っていないという現実も当然見えていたので、何年か後に何らかの形で復活できればいいと思っていました。


©日活 『行き止まりの挽歌 ブレイクアウト』(1988年 監督:村川透 出演:藤竜也 石野陽子)*アシスタント・プロデューサー:角田豊


『リボルバー』と藤田敏八監督

―『リボルバー』の企画成立過程を教えてください。

角田 ロッポニカのほとんどの作品は、外部の製作会社で進行中の企画を日活に集約した形だと思います。我々が会議に参加した時には、既にいくつか企画が挙がっていて、その中に『リボルバー』がありました。それぞれの企画に担当を振り分けられ、めでたく私が担当になったという感じです。

―企画担当はどのような仕事をするのですか。

角田 当時の企画の仕事は脚本作りがほぼ全てで、制作現場はプロデューサーが回していました。だから正味、脚本家の荒井(晴彦)さんとの向き合いですね。当時は割と旅館に籠って脚本を作ることが許されていた時代だったので、この時は旅館に、延べ1ヶ月ぐらい荒井さんは入ったんじゃないかな。メリエス(※『リボルバー』のプロデューサー山田耕大さんの会社)から山田さんと小林寿夫さんが来て、日活からは私が担当ということで意見を出し合いました。

―仕事の進め方はどんな感じでしたか。

角田 だいたい夕方に旅館に行き、飯食って軽く飲んで、夜中の12時を過ぎると「さあ、やるか」みたいな話になり、そこから深夜まで仕事をして、家に戻って仮眠を取って昼にまた会社に行くみたいな、そんな現実でしたね。

―角田さんのアイデアで残っているものはありますか。

角田 台詞1つだけです。フェリーに乗って……柄本明さんと尾美としのりさんのくだりですね。昔、柄本さん演じる蜂矢が新婚旅行で、当時女房だった人が白夜の日差しを浴びて綺麗だったという、そんな台詞です。

※映画の中では、こんな風になっています。

永井(尾美)「蜂矢さんは船、初めてですか」
蜂矢(柄本)「新婚旅行の時、一晩乗った。デッキチェアで眩しそうに日差しを浴びているあいつを見て俺もいいことしたんじゃないかと思ったんだけど」
永井「どうして一晩で眩しそうな日差しなんですか?」
蜂矢「バカ、白夜だ。フィンランドよ」
永井「へー。蜂矢さん、どうして結婚したんですか?」
蜂矢「誰も止めてくれなかった」

これだけは採用って言われて。「俺、才能ないんだな」って思いました。


©日活 『リボルバー』

 

―藤田監督は旅館に来たのですか。

角田 その旅館で監督にお会いしたことはありません。外ではちょくちょく会いましたが、仕事というよりは麻雀のお付き合いや、人数合わせが多かったです。土曜の昼間とかにパキさん(※藤田監督)ではなく神代(辰巳)さんが麻雀をやりたがってるけど人が足りないから来いと言われて。神代さんも、私が昔企画営業にいた時、準備稿を家に届けに来ていた奴だってことぐらいは覚えてくれているので「すいません」と言って参加させてもらいました。するとパキさんが来て、私の後ろに座って、私が打つたびに「ああ」とか「違う」とか「バカ」とか言って(笑)。当然すぐに代わるように言われ、神代さんとパキさんが麻雀やっているのを横で見ていたことはありました。(麻雀は)やっぱり性格が出るからね。神代さんは、手なりというか流れを大事にする、流れ通りにいって自然に上がっていく人なんだけど、パキさんは決め打ち。自分でこういう風な結論に行くと決めたら、そこに向かって強引に行こうとする。やはり同じ監督でもこういうところで性格が出るなと思いました。

―麻雀の打ち方の違いは演出の違いにも表れていると思いますか。

角田 神代さんの作品を直接担当したことはありません。神代さんは周りに「何かないか、何かないか」と言ってアイデアを集める人でしょ。パキさんは、なんかムニャムニャムニャムニャと、とにかく結論は出さない人みたいに言われていたけど、実際は自分の中では決まっているのだと思いますね。そこに向かってうまく周りを誘導するというか、自分の世界に寄せるというか、そういうタイプだったんじゃないかな。自分のアイデアが何もないかというと絶対そんなことはなくて、自分の琴線に触れない限りは周りをスルーするんじゃないですか。

―藤田監督から脚本に関して注文はありましたか。

角田 群衆シーンから始めてくれってことだけだったと思います。原作があるので、それをどう作るのか、準備稿までは静観されていたのでは。

―『リボルバー』は群像劇なのでハコ作りは大変だったのではないですか。

角田 原作にない人物や、原作にはいても名前のない人物がいっぱいいたから名前作りから始めました。若い高校生カップルなんて名前から作ったような気がします。
※原作では「吉川君」としか書かれてない高校生は、映画では(鹿児島県の地名から)「出水進」という名前になっています。

―高校生カップルはちょっとキャラが弱い感じがしますね。

角田 完全に柄本明さんと尾美としのりさんのコンビに食われているよね。沢田さんも最初、柄本さんの役をやりたかったんですよ。

―小林克也さんも出演しています。

角田 小林さんというのは、当時すごくヒネったキャスティングだと思ったけど、よくハマったよね。


©日活 『リボルバー』

 

―ロケには行かれましたか。

角田 企画担当はロケなんか連れていってもらえないの。撮影所にバーのセットを組んでいて、それを半日見たぐらいで、もう現場なんて一切行けなかった。だって地方に一人連れて行けばそれだけ費用も掛かるし、こっちも次の企画がどんどん進んでるし。次の企画を進めながら、音楽関係の権利処理とか地味な仕事をやっていました。

―音楽といえば、エリック・クラプトンのカバーで有名になったボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの「I Shot The Sheriff」が使われていますね。

角田 最初は原盤の使用料を確認するために、当時のポリドールにクラプトン盤の問い合わせはしました。で、使用料にたぶん一桁以上こちらの思いと差があったので諦めて、結局、音楽担当の人が歌うことになりました。この曲はJASRACではなく個人が扱っていて、その方は気楽に「あ、いいよ」って感じでした。さすがにこちらの言い値にはならなかったけど、何とか現場として出せる範囲で許可をいただきました。あと、「津軽海峡・冬景色」の替え歌(※柄本明と尾美としのりが、フェリーの上で「♪さよならあなた 青函船に乗り こごえそうな鴎見つめ泣いていました ああ津軽海峡・夏景色」と歌う)は当然、台本に書かれちゃっているので阿久悠さんの事務所にお伺いを立てたんだけど、それは素晴らしい返事を頂きました。「阿久悠として正式な許諾は出来ませんが、どうぞお使いください」と。さすが大物は違うなと。非常に含みのあるお答えを頂いた記憶があります。そんなことやってる間に現場組がロケから帰ってきました。

―『リボルバー』の客入りはどうでしたか。

角田 よくなかったと思いますよ。その前までは2本立て公開だったのに、この作品から急に1本になったんですから。
※ロッポニカは『メロドラマ』『噛む女』から『ひぃ♡ふぅ♡みぃ』『妖女伝説 ’88』(1988年/田中登監督)までは2本同時公開だったが、『リボルバー』から単独公開になった。

―『リボルバー』のみどころを教えてください。

角田 少なくともあの時代を描いていたんじゃないですか。1988年とは、ああいう時代でしたよっていうことにつきると思います。群像劇でありロードムービーだから、人もそうだし、街並みも当時のままでしょ。明らかに今とは違う日本が映ってる訳だから。

―藤田監督は角田さんにとってどんな存在だったのでしょうか。

角田 監督というより役者さんとして意識していましたね。当時、あの年代にはなかなかいない感じの役者さんでした。映画監督としてもしゃれていたしね。だって『天使の誘惑』(1979年)で百恵ちゃん撮っても、あんな山口百恵は見たことがないっていう。

―一番好きな藤田監督作品は何ですか。

角田 やっぱり一番印象に残っているのは『スローなブギにしてくれ』(1981年)じゃないかな。あの歌があって……原作の片岡義男さんもアメリカのエッセイとか、すごい感性のある人だし。

―『リボルバー』が藤田監督の遺作になってしまいましたが、もっと仕事をしてみたかったですか。

角田 もちろん機会があればご一緒したかったです。パキさんの映画には撮影された時代の「今」が描かれている。それは70年代の『八月の濡れた砂』(1971年)もそうなんだろうし、80年代の『ダイアモンドは傷つかない』(1982年)、『スローなブギにしてくれ』もそうなんだろうし、この『リボルバー』もそうだし、じゃあ90年代を見てみたかったなあと。

(インタビュー了 vol.17 担当・太田慶)


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