-創立の経緯についてお教え下さい。
1912年(明治45年)、大阪天満天神裏にあった「第二文芸館」を入手し、寄席経営の第一歩を踏み出したのが創業です。その後、多くのお客さまに支えられ、所属芸人が増え、寄席小屋が増え、創業から十数年で拠点は大阪から東京や横浜にも広がりました。現在では活動は寄席経営にとどまらず、ラジオ、テレビ、映画、パッケージ、配信などの様々なメディアを通して、日本中の方々に「お笑い」をお届けしております。
-竹中専務が入社した当時(1981年)のお話をお聞かせ下さい。
入社して3ヶ月目に「広報室」を作るように言われ、同時に『マンスリーよしもと』の編集長もするように言われました。「いやいやそんなんした事ないですよ!」って、一旦、断ったんですが、「誰もした事ないから誰がやっても一緒や」ということで、やる事になったんですよ。
当時は、ポスターの駅貼りや劇場の看板、新聞の日載だけでお客様が来てくれる時代で、広報なんて業務が世の中になかったんで、「お金をかけないで宣伝してこい!」みたいな言われ方しかしてくれなかったですね。
ちょうどその頃が「漫才ブーム」で、今まで劇場に来られなかったようなお客様が増えてきて、また、マスコミにも取り上げて頂く機会が増えて、会社にお客様の窓口、マスコミへの窓口という、広報という役割が重要になり、僕自身の職業になっていった感じですね。
-会社のロゴマークについてお教え下さい。
最初は花菱で、戦後上場した時は、「吉」の真ん中の縦棒が突き抜けていたロゴを使っていました。ただ、今みたいにロゴマークを重んじていなくて、僕が入社した頃も制作の現場はほとんど使っていませんでした。
20年前に80周年史を作るときに、若い人間が集まって、経営理念などと共にロゴも作り直して、人の笑顔に見えるような「Y」の字のロゴを作りましたけど、それも評判がもう一つでしたので、100周年を迎えるにあたり以前のロゴに戻そうとしました。そのとき、今の社長と会長と話し合っていたら、『縦棒が突き抜けていたら「吉」じゃないからそんな間違ったマークあかんやろ』って事になって、笑顔のバランスを変えてこのマークにしたんですよ。
-ロゴマークの色は何か意味があるんでしょうか。
社長が「フォルクスワーゲンのブルー」って言うたんですよ。
最初は、色も何種類かあって、分社化した時に、ホールディングスがブルーで、子会社は社長が自由に決めていいって事になりました。例えばクリエイティブ・エージェンシーはピンクでしたね。
でも、そんな風に好き勝手やっている内に、種類がいくつもあって面倒臭いなあって事になって、会社のロゴは一つやろって事で、ブルーに統一されたんですよ。
それで、100周年ロゴにはキャッチーコピーも付けようと考えたりもしたんですけど、イベントやテレビをやったりする中で、使いにくい事も出てくるかもしれんから、シンプルに日本語と英語バージョンだけ作って、使い勝手の良い形に落ち着きました。
まあ、精神としては60年前に作った時に「笑顔」と「吉」を選んで、まあ、恥ずかしいけど、よう見てたら、ニコニコできそうな気がしますから、ええんちゃうかなあと思っています。
-「スローガンは、大阪おもろナーレ!」に込めた思いをお教えください。
今は、東京や札幌、九州にも支社がありますし、地域密着の事も大切にしていますけど、やっぱり自分たちが生まれ育った街が、元気で強くないとあかんやろ!と、吉本が強くなる為にも大阪が強くならなあかんという事を全面に打ち出そうという思いです。まあ、大阪人はラテン系ですから、おもろナーレでいいんちゃうかなあという事で考えたんですよ。
吉本が面白い事するから、みんなも面白くなって下さいと、街で笑ってたり笑顔が溢れていれば、きっとええ街になるから、そうしたら、吉本も新しい芸人が生まれたり、劇場も流行ってくれるだろうという思いを込めて、"大阪おもろナーレ!"にしようと決めました。
大阪「から」という事ではなくて、まずは、大阪「が」元気になって、アジアで一番!何が?オモロイ街で!みたいに言えるようにしていきたいと思っています。
-吉本興業100周年プロジェクトに関して、ご説明頂けますでしょうか。
100周年事業期間は、2013年3月31日までを設定しています。2012年1月4日に創業100周年プロジェクトの会見をさせて頂いて、様々なプロジェクトに関してご説明させて頂いたんですが、やはり、メインになるのは、劇場だと思っています。
100年前に劇場の商売でスタートして、映画屋さんに「配給」という言葉があるように、僕らも「演配」(演芸配給)という言葉がありまして、ラジオやTVがない時代は自前の劇場に立つか、お出かけして別のステージに立つかという差ぐらいしかありませんでした。
昭和になって、ラジオが登場したとき、当初は芸人が新しいメディアに出たほうが良いか誰も分からない状態でした。吉本も当時はラジオ出演を禁止していたんですけど、春団治という落語家が無断で出演して、当時は契約も曖昧だったこともあって、数年揉めてしまうんですけど、結果で言えば今で言う、メディアミックスになり、ラジオで聴いた落語を生で見たいとか、ラジオを聴いた人が新しい吉本のお客様になったり、ラジオで新しいスターや芸人が出てくるようになって、和解に至ったんですよ。
実はそのちょっと後(昭和9年)に、『佐渡情話』という浪曲映画を日活さんと作ってるんですよね。
浪曲映画に関しては、先代の会長(林正之助)が日活さんと浪曲映画を流行らせた事をよく自慢していましたよ。吉本はラジオの後に映画をやったり、アメリカのショウ(マーカス・ショウ)をやったり、戦前に本当にいろんな事をやってます。
アメリカのショウでは、アメリカから道具や人間を入国させないといけないわけですが、日本でヒットしたために興行期間を延ばそうとしても、ビザが切れてしまう。そこで、一旦、香港に持って行って興行して、また再入国して、日本で再興行しても充分に元が取れるだけの人気がありました。
春団治がラジオの時代を作って、戦前にはエンタツや金語楼みたいな人気者も輩出。劇場からスタートしたものの、その時代時代のメディアと合体したり離れたりしながらやってきたというのが、吉本の100年の歴史になっていると思いますね。
原点が劇場という気持ちが強いので、今年の100周年も、発祥地である大阪のなんばグランド花月で『吉本百年物語』をやっているんですよ。
吉本の100年の歴史の中で面白いと思うのは、映画やプロレス興行にも手を出したりするんですけど、ちょっと時間がたつと、すぐ手を引いてしまうんです。
映画に関しては、東宝や東映の前身時代には関わっていたみたいですけど、なぜか映画界からも居なくなっているんですよ。ほんと不思議なんですけど。
それでも会社は消えてなくならずにやってきているんで、そういう意味で言うと、「お笑い」だけはやめる事なくずっとやってきているんで、100年の歴史は「お笑い」で支えられた会社である事は間違いないですね。
-様々なプロジェクトが目白押しですが、今、一押しのイベントはありますでしょうか。
もちろん、全部オススメしたいんですが、『吉本百年物語』の舞台は吉本ならではの取り組みだと思っていますので、ぜひご覧頂きたいと思っています。
また、吉本興業の100年の歴史が詰まった100周年史も制作中で、一般の方にも買って頂けるような面白いものにして、ボロボロになるまで読んでもらえるようなものにしたいと思っていますので、ぜひお楽しみにしていて下さい。
-最後に、同じ100周年を迎えた弊社へメッセージをお願いいたします。
映画の持つ力はまだまだ限りないと思いますので、吉本と一緒に何かして頂きたいとほんまに思いますね。
映画は僕の中で王様です。総合芸術だと思いますね。
お笑いを作る時は、やっぱりタレントの力に頼ってますから。
僕も映画製作をやらさせて頂きましたけど、スタッフが居ないと撮影できないですし、香港で映画作った時は茶水と呼ばれるオバちゃんがいて、お茶を入れてくれるスタッフもいましたからね。確かに、そのオバちゃんが製作現場の流れを変えてましたからね。
そういう意味でも、映画は総合芸術だと思いましたね。
お笑いは、舞台があってマイクさえスイッチONになってたら、タレントだけで成り立つんで、タレントの力に頼ってる部分は大きいと思います。
『無問題』の時に、日本人スタッフは、岡村隆史とマネージャーと数人だけで香港に行きましたけど、映画を作るという目的の中、国を超えて皆が一つになれるというのを実感しましたし、それが映画の力だと思いますね。
日活映画で言うと、僕なんかはやっぱりロマンポルノでしたね。
名作が一杯ありますし、後々、巨匠になっていく監督達も良い仕事してましたもん。
昔は、今よりもっと、皆で映画を観てるのがオモロイという感覚があったんですけど、今も皆で映画館に行って騒ぎ合って楽しめるみたいな事ができると思うんですよね。
映画にはまだまだそういう力があると思うので、ぜひ映画人の方たちに頑張って頂きたいと思っています。
-ありがとうございました。
吉本興業100周年記念サイト:http://www.yoshimoto.co.jp/100th/
[取材ご協力]
株式会社よしもとクリエイティブ・エージェンシー
専務取締役 竹中 功 様
宣伝・広報センター 広報担当 生井 梓 様
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(2012年10月16日掲載)
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