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Who is 川島雄三?
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●下北半島
 川島監督が生まれ育った土地。故郷の田名部市(現・むつ市)には、イタコで有名な恐山がある。大学入学で東京に出て来てからは、数えるぐらいしか帰郷をしなかった。また自ら自分の出身地を話すことは少なく、多くの関係者が下北半島の出身だとは、その言動と立ち振舞いからはわからなかったとのこと。

●明治大学の映画研究会
 大学に入学してすぐに入会したサークル。第一線で働く映画監督を招き、よく座談会をしていた。島津保次郎監督が招かれた時、監督に執拗に食い下がり閉口させる出来事があった。その後、松竹に入所して、助監督としてついた監督が島津保次郎監督だった。

●調べ魔
 監督が、かなりの読書家であることは有名。しかもあまり人が読まないようなものを好んで読み、相手をヘコます癖があったという。また映画史や映画を人一倍勉強していて、監督の素性や、どういったエピソードがあるとかを非常に知っていた。監督になってからも助監督たちには“徹底的に調べること”の大切さを教えていた。

●監督試験
 昭和18年、太平洋戦争真っ只中のとき、多くの映画監督が応召されて手薄になった監督陣を補うため、助監督のなかから新人監督の登用 をした。従来の監督推薦による慣習を破った能力テストで、問題は、森本薫「激流」の一節の演出プランとコンテを書くというものだった。監督はトップの成績で合格し映画監督となる。

●織田作之助
 太宰治、坂口安吾とともに新戯作派、無頼派などと呼ばれた作家。監督デビュー作「還って来た男」で知り合い意気投合し、以後、公私共に川島監督に影響を与えた。日本軽佻派を名乗り、文学界でも異端な存在だった。代表作に豊田四郎監督が森繁久彌主演で映画化した「夫婦善哉」がある。

●泥馬クラブ
 トップの成績で合格して監督になったが、その監督キャリアは順風満帆ではなかった。八作目「夢を召しませ」の不入りで、1年間仕事を干されることに。その時期に、同じ助監督部仲間で大正7年午どし生まれの西河克巳、小林桂三郎、柳沢類寿らと結成したグループ。DEMAらん哉・いざ!と始まった反体制ジャーナルの小新聞を発行し、会社首脳や組合幹部のデマなど捏造して笑い話を書き飛ばし好評を博すが、(当然の如く)会社幹部などの逆鱗に触れ、全4回で廃刊になる。

●「生活ノタメデス」
 泥馬クラブ事件以降、会社の御用監督として大活躍を始めるが、どれも添え物的作品であった。当時、助監督としてついた今村昌平は一度監督に「どうしてこんな作品ばかり撮るのですか?」と詰め寄った時、監督が言った一言。これを聞いた今村監督は大変失望をしたとのこと。後の2人の関係を考えると何とも不思議としか思えない出会いである。

●川島組
  松竹での24作目「昨日と明日の間」発表後、日活に移った監督は、全部で9作品を発表することになる。日活での作品は粒揃いで代表作と言われる作品の多くを残している。それは、監督を支えた川島組と言われる存在が大きかった。撮影の高村倉太郎、録音の橋本文雄、美術の中村公彦、そして助監督としてつき、後に多くの名声を獲得する今村昌平、浦山桐郎らがいた。俳優も三橋達也、フランキー堺、小沢昭一、殿山泰司など多くの曲者俳優たちが川島作品を多彩に彩った。

●積極的逃避
  「幕末太陽傳」で、この作品のテーマは?と問われた監督が答えた言葉。ラストシーンで主人公の佐平次は、田舎者のオヤジから逃げるように墓場から駆け出してゆく。監督は、このラストシーンをそのまま現在の品川に佐平次が飛び出してきて駆け抜けていくようにしたかった。多くの反対にあってこの案はダメになったが、監督の意図はどこにあったのか?この質問をした今村監督も、その著書の中で「実は何のことか僕にはよく判らなかった」と書いている。「幕末太陽傳」発表後、監督は日活を去り、東宝系の宝塚映画に移っていく。

●例の会
  監督が会長を務め、小沢昭一、殿山泰司、今村昌平などが会員にいた。殿山泰司曰く、「あのことだけは言うのはよそうナ」と今だったら大変だということをしていた会(俗にハレンチの会とも言うらしい)毎回、川島会長の挨拶「始めます!」という重々しい一言で始まる監督の人格あるいは人柄によってその会全体が芸術になるという不思議な会とのこと。

●スラップスティック
  無声映画に始まる、激しい動き、誇張した演技、発作的展開などを特徴とする喜劇のこと。日本の映画監督には珍しく川島監督はこの手のドライな喜劇作品を非常に得意とした。宝塚映画、東京映画で発表した作品の多くに川島喜劇の真骨頂が多く見られる。

●ミノムシクラブ
  監督の新しい物好きは有名な話だが、特にカメラが好きで撮影現場でも必ずお気に入りのカメラをぶら下げて写真を撮っていた。なかでも超小型のミノックスが好きで、撮影監督の岡崎宏三、三橋達也らとカメラ好きが集まって結成した会の名称。写真好きといっても作画するつもりはなく、ただパチパチと撮りまくるのが好きだったらしい。

●サヨナラだけが人生だ
  唐の詩人・于武陵の漢詩「勧酒」の一節“人生足別離(人生別離足る)”を井伏鱒二が意訳したもの。「貸間あり」のラストシーンで、桂小金治に丘の上から町に向かって立ち小便をさせながら、この言葉を言わせた。本人が好んだ言葉であると同時に川島雄三監督の人生を見事に表現した言葉にもなっている。また、故郷にある川島雄三の碑には森繁久彌氏の直筆によるこの詩の一節が彫られている。


【井伏鱒二 訳詩「歓酒」】

歓君金屈巵    コノサカヅキヲ受ケテクレ

満酌不須辞    ドウゾナミナミツガシテオクレ

花発多風雨    ハナニアラシノタトヘモアルゾ

人生足別離    サヨナラダケガ人生ダ


●便所
  川島作品で忘れてはいけないのが便所の描写である。自分の作品であると主張するがごとく他の監督では撮らない便所の描写を好んで撮影した。最初に現れたのは昭和28年の「新東京行進曲」で、その後、多くのスターに、この日常的な恥しくも悲しい動きを演技させることになる。

●乱調の美学
  2001年の三百人劇場で開催された大規模な川島雄三特集上映のタイトル。後年、宝塚映画・東京映画に在籍しながら、3本の作品を大映で発表。この3作品(「女は二度生まれる」「雁の寺」「しとやかな獣」)は、監督の才気活発なところを見せ、常に新しい表現を求めた監督の姿勢をこれでもかと示すものだった。“乱調の美学”、傑作、名作、珍作、迷作を発表し続けた監督の作品を表現するのにこれほど適した言葉は見当たらない。

●寛政太陽傳
  いつも通りしこたま飲んで夜遅く帰ってきた監督は、その朝、まるで眠るように死んでいたという。1963年6月11日のことだった。寝床にはインタビュー記事が載った中央公論と次回作に考えていた写楽を主人公にした「寛政太陽傳」用の江戸風俗資料を広げたままであった。この映画で主人公写楽を演じるはずだったフランキー堺は、後年、篠田正浩監督で「写楽」を製作・出演し、完成後の1996年6月10日にこの世を去っている。

●川島言録
  前出の「生活のためです」を含め、川島監督は色々な言葉を残している。その中で有名なものとして、「贅沢は素敵だ」や、「生きて行くと云う事は悲しいことです。恥しいことです」というのがある。盟友である柳沢類寿は、「彼は多くのコンプレックスと闘いながら、幾分恥しい心情を秘めつつこれを悲しく克服し、猛烈に生きようとしていた」と書いている。

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