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映画の背景

イスラエルとエジプト
1979年3月、エジプトとイスラエルは平和条約を結んだ。この平和条約は、1948年のイスラエル建国から4度繰り返した戦争状態にピリオドを打ち、エジプトがアラブの国として初めてイスラエルの存在を認めたことを意味する。政治的には大きな意味を持つが、両国の関係は時に“冷たい平和”と表されるように、殴りあうことはしないが隣に座っても向き合って談笑する程でもない、という関係に止まっている。

しかし、ディナが「小さい頃、テレビでやっていたのよ…あんな悲恋に恋してた…エジプト映画の燃える恋」と言うように、70年代から80年代にかけてイスラエルではエジプト映画が娯楽の一つであったし、アラブ音楽はイスラエルで一つのジャンルを確立してきた。また、ディナも口ずさむ“愛しい人”を意味する「ハビビ」というアラビア語は、若干のニュアンスを変えながらも、イスラエル人が親しい友人に発するヘブライ語の日常語として定着している。アラビア語やアラブ文化はイスラエルで決して冷たいものではなく、日常の一部に入り込んでいる。それは、アラブ諸国に囲まれていることの他に、アラブ諸国からイスラエルへ移住したアラブ諸国出身ユダヤ人の足跡に関係している。

 

イスラエルのアラブ文化の歴史
イスラエル国籍を持つイスラエル人の80%以上はユダヤ人で、その多くは国外に出自を持つ。ユダヤ人と言えばスピルバーグやアンネ・フランクが思い出されるが、イスラエルのユダヤ人には、意外にもエジプトやイラクといったアラブ諸国出身のユダヤ人が多いことに驚く。

イスラエル建国当時の中心はヨーロッパ出身のユダヤ人で、目指す方向性もヨーロッパのような近代的な国だった。しかし、建国直後に大量に押し寄せたのは、アジアやアフリカのアラブ諸国出身のユダヤ人で、アラビア語の訛りやイスラム社会に見られる文化を持ち込んできた。ヨーロッパ出身のユダヤ人にとってアラビア語やアラブ文化は非近代的で、イスラエルでは修正するべきものとして受け入れられた。それにより、アラブ諸国出身ユダヤ人は、同じユダヤ人でありながらイスラエルで自らの文化を否定、差別された苦い経験がある。70年代に入るとそれに反発したアラブ諸国出身ユダヤ人が自らの文化を守ろう、と声を上げるようになり、次第にアラブ文化はイスラエル社会に広がっていった。

このように、イスラエルのアラブ文化は、アラブ諸国出身ユダヤ人が声をあげ、イスラエル社会が反省と共にそれを受け入れることで次第に日常生活に浸透していった。それはエジプトと平和条約が結ばれる1979年以前のことで、エジプト映画が娯楽の一つになる下地はすでにイスラエル社会の内部にできていたと言える。

 

1990年代初期の希望の時代
エジプトとの平和条約以降、周辺地域との大きな政治的転換は起こらなかったが、イスラエル社会のアラブ文化はさらに日常生活に入り込んだ。特にアラブ音楽の楽器や音階に影響を受けたオリエント音楽というジャンルは、1990年代に入るとイスラエル音楽のメインストリームの地位を築き、ヨーロッパで開催される歌の祭典ユーロビジョンにイスラエル代表として出場するまでになった。

1990年代は政治的にもその地域の空気を変える出来事が次々と起こった時代でもあった。93年には当時のラビン首相とパレスチナを代表するアラファト議長が握手をし、翌94年には東側の国境を接したかつての仇敵ヨルダンと平和条約が締結された。“もしかしたら和平は実現できるものかもしれない”、というムードが人々の間で漂い、かつては差別の対象だったアラブ文化が、“センター”で披露されることが起こりうる時代であった。1990年代初めという映画の舞台は、監督にとってもいい時代だったに違いない。

そのアラブ文化センターの落成式に招かれたエジプトの警察音楽隊は、“希望を開く”を意味するペタハ・ティクバではなく、南部のいなか町ベイト・ティクバ“希望の家”に迷い込んでしまう、そこからこの映画は始まる。

 

楽団員を演じる俳優、イスラエルの中のアラブ人
エジプトの警察音楽隊を演じているのは、イスラエル全体で約15%を占めるアラブ系イスラエル人と呼ばれる俳優達である。権利も義務もユダヤ人と同じイスラエル人でありながら、イスラエル国内においては二級市民的にアラブの人と呼ばれ、アラブ諸国に行けばその所有するパスポートからイスラエル人と呼ばれ、どこに行っても居場所が得られないと本人達も口にする。アラブ系イスラエル人の男性は、家庭でアラビア語、仕事場でヘブライ語を使い分けるバイリンガルがほとんどで、劇中の俳優達も日常生活ではアラビア語とヘブライ語の二語を操る。

 

樋口義彦 (新潟大学博士研究員)

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