ある初夏の夜、戸崎慎介は東雲町の下宿からフラリと街に出た。そのポケットには手術用のメスがかくされていた。近くの薄汚い映画館に入ると、彼は二階の窓から路地を隔てた二階建ての家をじっと見つめるのだった。間もなく、一人の中年紳士がその家に入っていった。そして数分後、一人の若い女が湯道具をかかえて出て来た。二階にはさっきの紳士が一人で留守番しているらしい……慎介の眼は次第に殺気をはらみ、その手はメスを入れたケースをグッとにぎりしめていた。彼はいま、人を殺そうとしている。何故?―半年前にさかのぼろう。慎介が住み慣れたアパートをひきはらって、東京に近い中都市にあるスラム街の一つ、この東雲町にわざわざ下宿したのは三つの理由があった。一つは、医者としての彼が急患を手術で救えなかった責任感から、もう一つは妹の佐紀子が許婚者の梶原と一緒のとき、梶原組の与太者たちにはずかしめられ、それがため婚約を解消されたショックから自殺をしかけたこと、そして最後の一つは、いまは娼婦におちぶれてこの町に住んでいた幼なじみの加代子に彼がめぐり会い、昔の愛情を再び燃え立たせたからだった…。