箱根山麓―。夜霧と湯煙の中で湯本の町の灯がまたたいていた。然し、町は眠りについてはいなかった。湯治宿の広間では、駒札が飛んで賭場が開かれていた。一同の視線が注がれているのも知らぬげに、勝ち続けの渡世人は座を立つと、戸外に飛び出していった。幽かに遠くきこえる弾き語りの三味の音に魅せられたのだ。その渡世人には左腕がなかった…。数日して、湯治宿福住の二階で、左腕のない渡世人の朝吉は、三味線流しの女、お安を相手に想い出の糸を手繰るようにして話し出していた。三年前に亡くした女房のお千代に声が生き写しだという朝吉の話にお安もそっと涙をぬぐった。お安もまた亭主持ちの身、夫の徳次郎は江戸の宮大工で神田明神様の御造営を三ヶ月後に控えて、腕を痛め、その出養生に夫婦で湯治に来たが、思いのほかの長逗留となり金に困っての三味線流し…と身の上話をすれば、朝吉は、逗留の金さえあれば、稼ぎをしないですむものならと金を出そうと持ち掛けた…。