その男に、私は見覚えがあった。いや、正確に言えばその男の過去の姿に見覚えがあった。私は高校時代、彼の恋人だった。ミュージシャンになると言って私の前から立ち去った彼が今、作業着姿で私の前に立っている。
「じゃあ、こちらの申込用紙にご記入をお願いします」
私に全く気付いた様子を見せず、自ら美奈子であることを言ってしまって彼が現在ここにいる経緯を聞くべきかどうかで私は葛藤していた。しかも、渡された用紙にはプライバシーに関わることだからという理由から、希望する花火の大きさと色の希望を書くだけで氏名を書く欄はなかった。
書き終えると、和紙と筆ペンを渡される。ここに自分の叶わなかった想いを綴り、それを糊で尺玉の内側に貼り付けるんだと彼が言った。
一瞬、部屋が寒くなり入口から「パパ」と言いながらまだ幼い男の子が入ってきて彼に抱きつく。それに続いて、初老の男性と私よりも若い女性が入ってくる。
私はこの状況を理解しようと必死だった。
「すみませんね、あの人ったらお茶も出さないで」
そう言いながら、先ほどの小柄な女性がお茶を淹れてくれた。彼女が彼と初老の男性を紹介する。彼の苗字は近藤ではなく、大礒に変わっていた。
彼女が「お父さん」と呼び、彼が花火のことで指示を仰いだ初老の男性は、おそらく彼の義理の父で花火師なのであろう。確か彼の父は、会社員であった。
私が十五年待ち続けた最愛の人は、そんな約束などとっくに忘れ自分の幸せを手に入れていた。
誰かの幸せは、誰かの不幸の上に成り立っている。でも、それで良かったのだと自分に言い聞かせる。
彼は最後まで私に気づくことなく、明後日の夜に打ち上げることを告げた。支払いを終え外に出ると中から、男の子の笑い声が聞こえてくる。
凍てつくような外気の冷たさと室内との温度差は、今現在の彼と私との対照的な姿を表していた。
――これでいいんだ、あの花火が打ち上げられれば全てが終わる。
打ち上げの日は、朝から雪が降っていた。都会の雪は振ってもすぐ消えてしまう。融け際の白い雪が、泥に染まったのを見るのはあまり好きではなかった。
いくつかの轍が残る一昨日通った道を、積もった雪でタイヤが滑らないように注意しながら車を走らせる。
一昨日母は、言葉少なに帰って来た私を詮索することをしなかった。おそらく、彼が今地元で花火師になってることを母は知っていたのだ。知っていて私に花火を打ち上げることを勧めた。それは、結婚を踏みとどまっている私に対する母なりの優しさだったのかもしれない。
プレパブ小屋を覗くと、彼と先日の男性が私を待っていた。小屋の裏手が広場のようになっていて、そこで打ち上げるらしい。普段はそこで花火を打ち上げ火薬の調合具合を見るのだそうだ。
打ち上げる前に花火の説明を彼から受ける。打ち上げられた花火を見て願いに込めた想いと決別する。そういえばかつて幼い頃、どこからか真冬に打ち上げられる花火を見て母に言われるがまま目を閉じ、誰かも分らない人の新たな旅立ちを祈った記憶が蘇る。この地方の人は、皆そうするのだと彼が言った。
導線になかなか火がつかない様子を、自分の送ってきた人生に重ねる。そして、私の想いを込めた花火は遂に打ち上げられた。
辺りが一瞬明るくなり、粉雪が舞い散る空に藍色の花が咲く。想いを込めてそっと目を閉じた。
「――もう終わりましたよ」彼が私に声をかける。
「新しい出発、できるといいですね」
笑った時に口角が上がる彼の笑顔は、あの頃のままだった。
「――近藤君」
後片付けに向かう彼の背中に小さく呼びかける。
この十五年間、私の心の中にはいつもあなたがいた。約束は果たされなかったけど、あなたを待ち続けた日々に後悔はありません。
「ありがとう」
私の心の中に今日、藍色の花が咲いた。
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