志穂が山田を気に止めるようになったのは、おそらくあの日からだろう。
今年の春転校してきた彼女が美術部へ入って三ヶ月、暗くなるまで残っていたのは初めてだった。
昼間でさえ人通りの少ない駅までの道は連日降り続ける雨で暗くけむり、心細さをおぼえた彼女は知らないうちに先を急いでいた。
突然、野獣のような叫び声が耳に飛びこんできた。
思わず足をとめ、息を潜めて様子を伺うと、その声は近くの公園から聞こえてきていた。
おそるおそる覗くと、その声の主は傘も差さずに両手をひろげ、小さな公園を照らす電灯の光と降り注ぐ雨を一身に受けとめていた。
肩まで伸びた髪に見覚えがあり、同じ美術部の山田だと気がついた。
「うぉおお! おー……いひひっ、あーははっはぁ!」
いきなり山田は身をよじりながら大声で笑いだし、ぬかるんだ地面に大の字になって倒れこんだ。
志穂は驚いて後ずさりした拍子に、ポチャンと水溜りに足を突っこんでしまった。
その音で山田がちらっと目を向けた。目が合うと、山田への恐れが彼女の全身を駆け巡った。
「あぁ……ぃや、その」
言葉が出ない彼女は一言「ごめんなさい」 と呟くと逃げるようにして駅へと走っていった。
志穂が美術部に入った理由は部室に飾られていた山田の絵に惹かれたからだった。山田の絵は力強く躍動感に溢れていた。
「山田かぁ。おそろしいヤツだぜ。いきなり叫んだり、とにかく行動が突飛なんだ。そういや、いつの間にか部活にも来なくなったな〜。ほら、コイツ」
部長は去年の学園祭での集合写真を差し出した。とにかく近づいたらダメだよ、と言い、写真の中の山田を指ではじいた。
笑顔の美術部員の真ん中で、肩まで髪を伸ばした山田は壁の絵とは結びつかないほど暗く沈んだ目をしていた。
公園で会った翌日、志穂は渋谷のスクランブル交差点で、偶然山田に出くわした。
山田は大混雑した街中で声を張り上げて歌っていた。
「ねぇ、恥ずかしいから歌うのやめてよー」
連れらしい小柄な女のコが顔を真っ赤にしながら山田の袖を必死に引っぱっていた。
「別にいいじゃん。どうせ二度と会うことのない奴らなんだから」
八重歯を覗かせてにやっと笑うと山田はまた大声で歌いだした。
「昨日はいらないっ 明日もいらないっ 今日が最高っ!!」
むちゃくちゃな歌詞だが、その叫びに志穂の心はゆさぶられた。何故だか、部室にある山田の絵が思い出された。
その日以来、彼女はいつも山田の姿を探した。
「おい、山田! 待ちなさい!」
教師の怒鳴り声が廊下中に響き渡った。
この日の山田は特にひどかった。Tシャツの腹部が赤く染まり、右腕からは血を滴らせ、ポタポタと山田が通った道のりを示していた。
一瞬ドキっとしたが、よく見てみると、それは血に似せた鮮やかな絵の具だった。
山田はたちまち教師たちに取り押さえられた。
彼女の目の前を引きずられていく山田の背には、大空を飛びまわる鳥の絵が描かれていた。
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