始発待ちの駅のホームに立っている。
足元に何かが落ちていた。
拾ってみると、プラスチックのケースに入った口紅だった。
落し物として届けるために階段へ向かうと、一人の女性が駆け下りてきた。
黒いセルフレームの眼鏡をかけた女性。息を切らすほど急いでいる。
化粧はしていないようだ。彼女と目が合った。その時、
「それっ…!」
いきなり言われた僕は、手に持っていた口紅を差し出した。
「よかった」
彼女はほっとしたのだろう。眼鏡の奥の目が潤んでいた。それを受け取った彼女は頭を下げて階段を上っていった。そこへ始発電車がすべりこんできた。
それから数日後、講義のレポートを書く為の資料を借りに図書館にやってきた。ボクは必要な本を見繕い、貸し出しカウンターへと向かった。
そこにはあの時の彼女が居た。
眼鏡はかけていなかったがすぐに分かった。
「返却は2週間後です。どうぞ」
「あの、覚えてませんか?」
彼女は眉間にシワを寄せてボクの顔を見ている。
「ごめんなさい。今日、眼鏡忘れちゃって」
ここまでどうやって来たんだろう。そんな疑問もわいたが、
「駅のホームで口紅を拾った者です」
彼女は思い出したのだろう。軽く頷いた。
「あの時はありがとう。お礼したいんだけど、よかったらコーヒーでもどうですか。」
「じゃあ待ってます」
一時間ほど図書館わきの公園で暇をつぶした。彼女がやってきた。ちゃんと眼鏡をかけている。手には缶コーヒーを2本持っていた。てっきりちゃんとしたコーヒーだと思っていたボクは肩透かしをくらった気分だった。
「ブラックと甘いのどっちがいいですか?」
「ブラックください。ところでそれは?」
彼女はブラックの缶コーヒーを差し出し、隣に座った。
「あぁ、眼鏡ね。忘れたと思ったらカバンの中に入ってて・・・あの口紅大切なものだったんだ」
彼女は話しはじめた。
「私、双子なの、一卵性の。姉がよくつけてたのがあの口紅なの」
彼女は双子だった。
彼女の名前は沙耶といい、今年からあの図書館で司書として働いている。ボクよりも2才年上だった。
「いろいろ喋っちゃった。ごめんなさい」
彼女は仕事へと戻っていった。
胸が高鳴っていた。
僕は、恋をした。
大学での講義を終えると図書館に通った。
決まって公園のベンチで彼女と話した。
お姉さんと彼女は同じ大学に通っていたこと。
卒業まであと1年という時に、バイク事故で命を落としてしまったこと。
彼女は教師を目指し、お姉さんは図書館司書を目指していたこと。
彼女は、お姉さんのなりたかった職業に就いたのだ。
自分が何になりたいのかさえ決まっていない自分が情けなかった。
「先生には・・・なりたくないの?」
彼女は戸惑った表情をしている。諦めきれていないことは明確だった。
「そうだよね。お姉ちゃんのやりたいこと、妹の私がやっても喜ばないよね。私はお姉ちゃんじゃないんだから・・・」
彼女は黙ってしまった。長い沈黙のあと、小さな声で何かを言い残し去っていった。
ボクには聴き取れなかった。
暗闇が辺りを包む。
持っていたコーヒーは冷たくなっていた。
「冷てぇなぁ…」
ブラックのコーヒーの苦さと涙のしょっぱさ。それは彼女との別れ
を意味していた。
あれから1年が経っていた。桜の咲く季節になり、僕はゼミが始まった。真新しいランドセルを背負った小学生が目に入る。
前よりも時間的には楽になったが、心には穴が空いている様だった。
「お前あの先生好きなんだろっ!」
小学生がふざけあっていた。おそらく新しく来た先生のことを話しているのだろう。すると、
「さようなら。また明日ね」
聞き覚えのある声。
この声は彼女の声だ。
その方向に目をやると、前と変わらず黒縁の眼鏡をかけた彼女が立っていた。
その唇にはあの口紅が塗られている。
彼女は僕に気づくと、笑顔でこう言った。
「ありがとう」
あの時、聞き取れなかった言葉はこれだったのだ。
終
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