真夏の熱風が身体を撫で回す。弾んだ呼吸を整えようとするが思うようにいかない。ここまでくるのに必死でわからなかったが、少年はどうやらずっと裸足で走っていたのだった。
道ともいえないような、野良道の横を小川が流れている。その流水にひざ下まで浸かる。
衝動的に犯してしまった行為が胸をしめつけ、罪悪感が少年を苛んだ。
だいじょうぶ。あとで、こっそり返せばいい。きっと、わかりっこない。
ゆっくりと右の掌を開いていくと、そこには少年の掌にもすっぽり収まってしまう程、小さな銀色の円柱が握られていた。もう一度ゆっくり握りなおすと、円柱は少年の体温を吸収し、人肌のような生温さを少年に伝え返した。
割れ物を扱うように、そっと蓋を開ける。中から真っ赤な塊が顔を出した。ほのかに独特のにおいが香る。
ドキドキと早鐘のように鳴り響く心臓を押さえ、ゆっくりと唇へ近づけていく。8月の初旬となれば、この辺りには当然のように蝉の大合唱が響いているはずだった。しかし、今の少年には何も聞こえていなかった。
浸かったままの水の冷たさは、なぜか刺さる様に痛かった。
『犯行前』
単身赴任の父は幼い息子を祖父母の家へ預け、東京で働いていた。
少年が10歳の誕生日を新学期とともに向かえた頃、父親が「かいしゃのおともだち」の女の人を連れてきた。
少年には母親がいない。
父親は、少年が生まれてすぐに母親は死んでしまったと言う。
少年は母親に会ったことはない。
「かいしゃのおともだち」の「ようこさん」は、初めて会った時、エメラルドグリーンのワンピースを着ていた。それに見たこともないような真っ赤な唇をしていた。少年は夏祭りで食べるりんご飴が大好きだった。りんご飴のような色をした赤い唇でようこさんは「こんにちは」と微笑んだ。肌が白いせいか、派手なワンピースよりもその唇だけがやたらと目についていた。
その日の夜、父親におやすみなさいを言おうと、書斎の扉をノックした。中から父親とようこさんが出てきて少年に「おやすみ」と言った。その「おやすみ」を言う父親の口が、なぜかいつもと違うように感じた。昼間と同じ嫌な感じ。それがどうしてなのかは、その時はまだ、わからなかった。
次の日、昼食をとるために少年は遊びから帰ってきた。少年は、居間にあるハンドバッグに気づいた。ようこさんのものだ。ハンドバッグは口が開いていて、ピカピカと何かを反射させていた。
少年は辺りに誰もいないのを確かめると、ハンドバッグからその光る物を手に取った。
それは小さな銀色の円柱で、思っていたより軽かった。少年は何が入っているのか気になり、少年は蓋をそっと外してみた。
口紅だ。ようこさんの唇と同じ色。何気なく見つけてしまった口紅に、なぜか胸が高鳴る。
そうか。昨日の夜、父親の唇に覚えた不快感はこれだったのだ。
あの時、父親は唇の端に、これと同じものをつけていた。そうだ、あれはようこさんの口紅だったんだ。
ガタン、と台所の奥から物音が聞こえた。帰ってきたの?と、床の軋む音と一緒に、ようこさんの声が聞こえる。
少年は、慌てて居間を出て外へ飛び出した。どうして逃げたのかわからなかった
敷き詰められた砂利が足の裏に刺さる。痛みは気にしなかった。
今、止まったらだめだと少年は思った。
少年は真夏の日差しの中、走り続けた。
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