宮本武蔵 第一部・草分の人々 第二部・栄達の門
みやもとむさしだいいちぶくさわけのひとびとだいにぶえいたつのもん
「尊王村塾」に次ぐ稲垣浩監督作品。原作は吉川英治の大衆小説。宝塚少女歌劇の宮城千賀子が入社第1回出演。

関ヶ原の合戦によって天下の覇権が関東方に決すると共に、庶民の流れは不安な上方から建設の江戸へ移り出した。急造の家が建ち、店が開き、外濠が作られて正に官民をあげての草分けの時代であった。こうした時代に宮本武蔵は下総法典ヶ原の荒地を愛弟子三澤伊織や土地の民と共に開墾していたが、これぞ心業、検業に大円無欠の道を求める真摯な姿だった。けれども武蔵の胸に湧きおこる若い血潮は菩薩にも例え得べき気高い女性・お通の幻にともすれば乱れがちだった。お通は武蔵の幼友達であり、また関ヶ原の役に参戦した戦友・本位田又八の許嫁だったが、当の又八はお通を忘れ一人の女の色香に迷って帰国しなかった。又八の母・お杉は又八の帰国しない理由は武蔵に罪があると信じ込み、武蔵を秘かに愛するお通を連れて本位田家の敵としてつけ狙っていた。この頃、豊前小倉の城主・細川忠興の長子忠利は有為な人材を求め、秘かに家老・長岡佐渡に命じて武蔵の行方を捜していたが、同藩の重臣・岩間角兵衛は武蔵に勝る兵法者として佐々木小次郎という美剣士を推挙した。小次郎は岩国の出で若年ながら巌流という独自の剣法をひらいた激しい気魄の男だった。その頃、武蔵は法典ヶ原に一体の観音像を残し江戸・博労町の木賃宿に身を寄せていたが、京の旅人から武蔵と吉岡一門との一乗寺下り松における決戦の模様が伝わり評判が高まった。江戸へ現れた小次郎は旅人の話を訂正し、武蔵の剣は卑怯なりと放言したことから武蔵は町を離れ、武蔵野に草庵を立てて移り住んだ…。

日本
製作:京都撮影所 配給:日活
1940
1940/3/31
モノクロ/スタンダード・サイズ/15巻/3899m/142分

<ご注意>
戦前の製作作品(1942年以前)は、資料の不足などの事情により、当HPのデータの内容が必ずしも正確なものとは限りません。
※現存するフィルムは第一部のダイジェストに第二・三部をまとめた総集版となっています。

日活