vol.6 録音 橋本文雄さん(前半)

今回は【録音】について、又、その域を越えて色んな事を語って頂きたいと思い、橋本さんのお宅を尋ねました。橋本さんの語った事を出来るだけ伝えたいと思っています 。ですので今回は、特別に【前半】と【後半】の2回に分けて掲載する事にしました。

【前半】は橋本さんの歴史や思い出、そして昔の映画製作の現場を中心に、また【後半】は"録音の仕事""リアルな音とは~音の設計~""伝えたいこと""ロマンポルノ時代""現在の映画製作"などについて語って頂きます。お楽しみに!!


【略歴】
1928年京都生まれ。1946年、録音助手として大映京都撮影所録音部入社。伊藤大輔、衣笠貞之助、溝口健二、森一生など錚々たる監督に映画の基礎を教わる。1954年に日活に移籍。西河克巳監督の『生きとし生けるもの』で技師デビュー。以後、川島雄三、井上梅次、中平康、今村昌平監督作品や石原裕次郎主演作など日活アクション作品に携わり「日活の音」の礎を作る。ロマンポルノでは神代辰巳、西村昭五郎、小沼勝、曽根中生監督作品を担当。現在は澤井信一郎、森田芳光、阪本順治、和田誠、平山秀幸等と共働している。映画録音担当作品は計274本にのぼる。

【主な担当作品】
1955年『生きとし生けるもの』
1956年『太陽の季節』
1957年『幕末太陽伝』
1957年『俺は待ってるぜ』
1958年『錆びたナイフ』
1959年『才女気質』
1959年『にあんちゃん』
1961年『豚と軍艦』
1963年『太平洋ひとりぼっち』
1984年『Wの悲劇』
1988年『敦煌』
1988年『怪盗ルビイ』
1992年『外科室』
1995年『天守物語』
1997年『失楽園』
2000年『顔』
2003年『阿修羅のごとく』 など

【受賞歴】
毎日映画コンクール録音賞5回受賞。
日本アカデミー賞最優秀録音賞3回、優秀録音賞9回。日本映画・テレビ技術協会 日本映画技術賞3回。

この仕事を始められたきっかけは何だったのでしょうか

僕の母親の弟が、大映京都撮影所(※1)の製作主任をやっていたんや。それで戦後の昭和21年(1946年)の19歳の時やったんやけども、その時分、撮影所は一般公募しないんだな、姻戚関係が多かった。僕は大阪専門学校(現・近畿大学)の途中やったけど、ヤミ屋をやっていて、どっちが本業や、いうぐらいに、インド商人相手に絹の羽二重を運んで結構稼いでた。けど、それは勝手に売買してはいけない禁製品やったから、見つかったら沖縄に飛ばされて重労働やらにゃあかんかったんや。だからそれやったら、学校やめて撮影所へこないか言われて。

僕はやる気はなかったんやけど、親が言うから「なら、試験だけ受けよう」思うて行ってみたら、丁度録音部が音楽のダビングやっててね、当時クラシックとかもよく聞いていて、音楽も大好きやったから「面白そうや」思うて。40人ぐらい受けに来てたけど、運が良かったのか悪かったのか、採用した3人の中に残っていたんや。(笑)

本当は本が大好きやったから、大学も文系に進みたかったんやけど、当時は理工系の方が仕事には良かった。だからその時分は僕も卒業したら、満州(※2)に渡って製鉄所で働くつもりだったんや。

当時は映画は政治的にも重要だったと聞きましたが

昔は宣布工作で、映画を作る事は重要だったんだよ。「満州鉄道」が新生国家をアピールする映画を作るのに「満映撮影所(※3)」を作ったり。終戦後はそこで働いていた人が、日本に返ってきて「東横撮影所(※4)」に入ったり、中国の北京撮影所や西安撮影所に移ったりしていたんや。

大映京都録音助手として入社されて、その後日活の多摩川撮影所が出来た時に京都からいらっしゃったんですね。

昭和29年 、紅やん(べにやん)(※5)を連れてこっちに来る時は五社協定(※6)もあったし、「もう戻れん」と思って本当に覚悟をしてきたんや。紅やんにも「日活が潰れたら道路工夫して働かにゃいかんけど、それでもいいか」と話してね。一緒に南新宿の6畳のアパートに住んでいたよ。

それから日活の黄金時代ですよね

一本だけ助手を務めた後、27歳で西河克巳監督の『生きとし生けるもの』で技師になった。あの頃はメインスタッフは車での送り迎えがあったし、大阪以遠はロケ地への移動も飛行機を使ったんや。給料も普通の大卒の10倍以上はもらっていたからね。助手にとっては早く技師になりたい、という目標があったと思うよ。

録音はどのようにやっていたんですか

大映時代は、スタジオでの撮影は"シンクロ(※7)"でやっていて、ロケーションは全部"アフレコ(※8)"だった。その頃はフィルムの端にそのまま音を取り込む光学録音やったんや。録音部は録音技師とフィルムを回すレコーダーとマイクマンが3人ついてた。カチンコもその時は録音部の一番下が叩いてたんだよ。

レコーダー室は撮影所の中の別の建物のところにあって、そこから各ステージにコードが引いてあってね。その建物から、機械を回し始めてブザーを鳴らす。そして、スタジオの電話からそのブザーの音が聞こえると、カチンコを打って、芝居が始まるという風になっていたんや。レコーダーはレコーダーの建物だったし、技師はスタジオの中でもブース、撮影の現場にいたのはマイクマンだけだった。その後、磁気録音になり、ナグラ(※9)を使うようになって、ロケーションもシンクロでやるようになったんだよ。

日活はどんな雰囲気でしたか

当時は布田の駅を降りると田んぼの真ん中に、日活の真っ白な建物がでーんと建ってた。道も車一台がやっと通れるだけで、すれ違うと田んぼに片っぽの車が落ちよってね。日活は、白亜の殿堂・東洋一と言われ立派だったよ。松竹や新東宝、大映とか色んなところから意欲のある人達が集まって日活は出来てたし、皆、それぞれの映画会社から出て来てて、もう戻れないから、何もかも自分達で作らにゃ仕様がなかった。

けど、あの頃は皆が意見を言うし、それおもろいな、やってみようかという自由にのびのびやる感じがあったよ。『幕末太陽伝』や『豚と軍艦』…『豚と軍艦』なんて500匹ぐらい豚が走るとこがあるけど、あいつら全然走りよらんから、浦山(※10)とか助監督が黒い学生服着て、豚の間を四つんばいで走り回って追いたてたんだよ。

昔は立派な日活銀座のオープンセットもあったな。日活は始めスターもいなくて、裕ちゃん(石原裕次郎)とか旭ちゃん(小林旭)とかが出てきたけど、スタッフもスターも皆仲間だった。錠さん(宍戸錠)もいつも言ってたけど、日活学校に来てるみたいやと。ファンファン(岡田真澄)やアキオちゃん(長門裕之)、雅彦ちゃん(津川雅彦)、えいめいさん(二谷英明)や小百合ちゃん(吉永小百合)、ルリ子ちゃん(浅丘ルリ子)…ルリ子ちゃんは『緑はるかに』をやってた頃はまだ子供で、台本の難しい字が読めんから「これなんて読むの」なんて聞きに来ていたよ。けど、皆それでも大学だけは出とけ、やりたい事あったら続けろと日活の重役から言われて頑張って通ってたもんな。だから教育もちゃんとあったし。今でも皆やっぱり日活に帰ってくるとホッとする言うよ。

スターになる俳優というのは、やはり何か違いますか

うん、美男子とか美女とかとは違うなんか感じるきらめくものはあるね。大映京都撮影所の時のスターさんと言ったら、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、月形龍之介さんとか時代劇から出てきた人達だったんだよ。だけど、裕ちゃんはそこらへんに歩いている人のように親しみが持てて、時流に乗って出てきた感じがしたよね。長年かかって作られたのとは登場の仕方が違う。"その時代"が求めたヒーローだったんだろうな。一寸不良っぽくて…けど育ちがいい。

丁度、石原慎太郎さんが芥川賞をとった『太陽の季節』の時代にも乗ったんだろうし。日活のスターは皆、そんな風に割と身近な感じのスターだったと思うよ。それに、もともと裕ちゃんは『太陽の季節』の時に、水の江さん(※11)が当時慶應の学生だった裕ちゃんを方言指導役みたいにして連れてきたんだから。その後の『狂った果実』だって本当は雅彦ちゃん(津川雅彦)が主役やったけど、裕ちゃんが主役みたいに言われてね。

裕ちゃんは当時、娯楽映画と文芸映画の両方に出たから若い人からも、年配の人からも好かれたんだよ。『君を忘れない』の時にキムタク(木村拓哉)とやって、丁度裕ちゃんが出てきた時に似ていたから「君も裕ちゃんのようになれよ」と言うたんや。行儀のいい子やったよ。

けど、何でも人との出会いが大事やと思う。その時にあんまりええ加減にしないで、大事にせんと。誠意を持ってやれば、きつい事言っても、腹立てられても信頼してもらえるもんなんや。

海外でも随分お仕事されてますよね

『未完の対局』で中国の北京撮影所に行った時、録音技師主任の呂憲昌(ろけんしょう)さんや左山(さざん)さんと知り合った。呂さんと左山さんは「満映撮影所」で働いていて、左山さんは中国に帰化した日本人だったから日本語が上手でね。作品は合作やったから、技師は呂さんと僕でやって、助手も中国と日本で2人づつ立てた。録音部は中国人、日本人とも本当に仲がよかったんだよ。

呂さんが「全部日本のやり方でやろう」と言ってね、普通中国では現場で急ぐ時でも走ったりしないんだけど、録音部だけは中国の助手も走ってたよ。今でも"老師"と言ってくれて、年賀状とかクリスマスカードをくれる。その時一番下だった助手の少李(しょうりー)も、その後金鶏賞で録音賞を取ったりして、皆偉くなってやっぱり嬉しかったね。

そして、中国の録音システムに大きな影響を与えますよね

当時、中国は録音技術が遅れていて、シンクロで音を録っていなかったんや。というのは、中国は広いから言葉が場所によって20以上ある。だから北京の標準語でセリフをとっても、結局それぞれの土地の言葉にしないといけないから、現場で音を録る"シンクロ"の意味があまりなくて、重要視しなかった。けど、僕はいい音を録るには、やっぱりせめてセットぐらいは現場で録った方がいいよ、とアピールしてね。ラッシュ(試写)で音付きの画が流れたとき、皆びっくりして喜んでくれた。

それで、中国でトップ技師の呂さん達が「橋本さん、中国の録音技術の為に講義を開いてくれ」というから、ワークショップみたいなものを開いたんだ。丁度僕がやった『炎の第五楽章』(※12)が香港映画祭でかかって、それを北京でも上映したらしく「あの作品の録音技師が来ている」という事で色んな撮影所から録音技師が30人ぐらい集まってきた。呂さんや左山さんが僕や録音のことをよく理解して、通訳をしてくれたから出来たんだけどね。

でも、その後から中国は映画をシンクロで録るようになったんですから、すごい事ですよね。

どうかは分らんけど、その事は良かったかもしれんな。アンジェイ・ワイダー(※13)と仕事をしたポーランドでも、当時まだシンクロで録っていなかったんだ。だからシンクロでやろうと言ってね。ルーカススタジオでも好きにやらせてもらうしね。どこの国でも遠慮しない。僕のペースでやるから。どこ行っても言いたい事言う代わりに教えられることは教えたいし。だからコンプレックスなんかも持つ必要はない。そういう事が長年の実績になるんだよ。

橋本さんが、どうして今も現役で必要とされるのかが、分った気がします。技術は勿論ですが、やはりその人間性でしょうね。次は"録音という仕事"について聞かせてください。


インタビュー後記

橋本さんの58年の映画人生を、どうやったら伝えられるでしょう。勿論、このスペースだけで語れるわけがないのです。けれど、その一片でもいい、"橋本文雄"という人間、映画の歴史…そんな何かを伝えられればいい、と思いインタビューをお願いしました。

橋本さんは私達の知らない過去の"音"や"言葉"を聞いています。いったいどんな音がその頃聞こえていたのでしょう。不思議な感じがしますね。"音"にも勿論「時代」があるのです。だけど、橋本さんの一番すごいところは、そんな"過去の音を録っていた"という経歴ではなく、"今、この現代の音を録り続けている"ということ。それも、最も活躍する旬の監督たちに必要とされて。それがカッコイイじゃないですか。

そして、橋本さんのお話を伺っていて感じたのは私達は、"歴史の中の一点"に過ぎない、ということです。でも、それは悪い意味ではなく、その"一点"でも、きちんと生きてゆく事で、それは大きな「点」になり、人へと伝わり「線」となる、「未来」に繋がるということ。だから、その"一点"としてきちんと生きて行く事に、もしかしたら何か意味があるのかもしれません。もし、生きる事に意味があるとしたら…そんな風に思いました。

橋本さんに関する本

『ええ音やないか』
~橋本文雄・録音技師一代~

"耳"で映画を観る。
石原裕次郎、吉永小百合、赤木圭一郎…日活の黄金時代の音を録り続けてきた橋本さん。この本を開けば、中に詰まった言葉から、その頃の撮影所の風景が、きっと見えてくるでしょう。
(坂東玉三郎さんの言葉より)

発行元 : リトルモア
定価 : 4500円 
電話 : 03-3401-1042

当時の日活撮影所(空撮)


当時の日活撮影所・所内


(※1)大映京都撮影所…前身は日活太秦撮影所。大日本映画製作株式会社(大映)が、新興キネマ、大都映画、日活製作部門を統合して創立。製作会社の再統合で松竹、東宝、大映の3社に。撮影所名も「大映京都撮影所」に変更。
(※2)満州…日本が中国東北部を占領してつくった国・満州国。日本には鉱山など資源が少なく、向こうに渡り、働く人々が沢山いた。
(※3)満映撮影所…甘粕正彦が中心となって設立した撮影所。日本から満州に渡った人も沢山働いていた。
(※4)東横撮影所…マキノ満雄、根岸寛一など、旧満映からの人材を中心に松竹スタッフの応援も加え、東急電鉄の資本をバックに発足。後の「東映」の母体の一つとなる。
(※5)紅やん(べにやん)…録音技師・紅谷恒一。代表作に『神々の深き欲望』(今村昌平)や『人間の証明』(佐藤純彌)『復活の日』(深作欣二)『夢』(黒澤明)などがある。
(※6)五社協定…当時、独立をして、多摩川撮影所(現・日活撮影所)を作ろうとした日活に、スタッフや俳優を貸し出さないという協定を既存の映画会社5社(松竹、東宝、大映、新東宝、東映)が結んだ。
(※7)シンクロ…撮影現場で音を録る方法。ナグラが出来る前はそれがロケーションでは不可能であった。
(※8)アフレコ…撮影の現場では画だけ撮り、後でスタジオで音(セリフ)をとる方法。アフターレコーディングのこと。
(※9)ナグラ…スイスのクデルスキー社が生産・販売している録音機の一つ。6ミリテープでシンクロが可能。
(※10)浦山…後の浦山桐郎監督のこと。『キューポラのある街』などを製作。
(※11)水の江さん…水の江瀧子。女優兼、プロデューサー。「ターキー」の愛称でも知られる。
(※12)『炎の第五楽章』…神山征二郎監督作品。日本フィルハーモニー交響楽団を存続させる楽団員の話し。
(※13)アンジェイ・ワイダー…ポーランドの映画監督。橋本氏は、坂東玉三郎主演の『ナスターシャ』に録音として就く。ポーランドもその後、シンクロを録るようになる。