vol.2 デザイナー 斎藤岩男さん

【最近の主な担当作品】
1988年「ドグラ.マグラ」
1991年「四万十川」「無能のひと」
1998年「リング」
2001年「連弾」
2003年「蕨野行」「精霊流し」

映画のデザイナーの仕事について教えてください

デザイナーの仕事って分かりにくいですよね。カメラマンとか監督ですと何をしているのか分かりやすいかもしれませんが、デザイナーはSFとか時代劇とか特別な世界を描く場合でなければ分かりづらい。僕自身は、デザイナーの仕事の役割は、撮影前の準備段階にスタッフの意見を集約すること、《ひとつの世界》を明かにして、《提示すること》だと思っています。《説得》するのではなくて、《話し合う》ためのらせん状の運動を発展させる役目です。如何にして撮影前に映像を具体化させるか、それは「オリジナルで考える」というよりも「皆が考えている事を具体化してゆく」という意味です。時間があるほど準備は確かに出来ますが、完璧な準備時間があるからと言って、完璧な映画が撮れる訳じゃない。「映画」はらせん的な運動(流れ)の切り口だという気がします。でも「絵」を描いて提示する事の危険性もあるんですよ。それは《イメージを具体化する》のではなくて、《前提にしてしまう・宣言してしまう》という力も持っているからなんです。

準備はどのくらい前からするんですか

実際の拘束は映画で1~2ヶ月前ぐらい、テレビですと2週間前という事があります。でもその前に話しはあって、例えば今回などはもう夏に一時的に拘束されてデザインを見せたりしています。これは来年クランクインなので結果的には準備は半年ぐらいかかっているんですよね。それから、例えば製作費を集める為に絵を描く事もあります。脚本を見せるよりもビジュアル的に提示することで出資者の映像を見たい欲望を駆り立てるんです。日本ではそんなにまだやっていないかもしれませんが、海外では既にやっています。

どうしてデザイナーになったのですか

僕は大学は文学部で美学をやっていました。就職の時、ある企業に内定していたんですけれど面接に行ったら何かあまりにも人種が自分と違う気がする。それで孤立感を覚えました。(笑)それで「辞めます」と電話したんですが、「じゃあ次はどうしよう」と思っていたら、偶然掲示板に日活の募集記事が載っていて。

デザイナー募集で受けたんですね

いえ、助監督。だけど二次試験が助監督は作文、デザイナーはデッサンだったんです。僕は昔から絵を描くのが好きだから「作文じゃなくて、デッサンで受けたい」と言ったらあっさり認められて。急遽デザイナーで受けたら、受かっちゃったんです。自分では映画だけは止めておこう、儲からないし、貧乏なイメージだからと思っていたのですが、何故かやってます。その頃まわりには映画に行く、と話していた友達もいましたが、その人たちは誰もやっていないんです。(笑)

皆、そんなものらしいです。(笑)斎藤さんも文化庁で海外にいらっしゃいましたよね

アメリカやヨーロッパのデザイナー25人くらいと話しをしました。その時、今まで自分がよくされていた質問を今度は皆にしてみたんです。「あなたの美学っていうのは何処にあるんですか」って。そうやって質問した中で正直な人はこう答えてくれました。それは「自分の美学は雑多だ」と。色んな事に興味があり、昨日と今日と明日で違うものを食べたいキャラクターだって。いろんな作品をやりたい。それが自分の美学だと。僕も今はこう考えてます。デザイナーは、《作品にのっとった美学を出すのが仕事》であって、《自分の美学を表現するのではない》と。それがプロではないか。個人的には勿論デザイナーですから、ドキュメンタリーで現実的な設定よりも、よりイリュージョン(幻想)的なものに興味はありますけれどね。どちらにしろ人間を描くもの…人間のドラマがある世界がいいです。

どうやってデザイナーの勉強をしたんですか

僕らがアシスタントの頃は「デザイナーは経験がなくても勉強すれば若くてもやれる」という撮影所の所長の方針で、入社して半年目にデザイナーにさせられました。20代で木村威夫さんに「協同デザインをやろう」と誘われたりもして。木村さんはその世界では皆がすごい人だと知っているので、悪い評価がついたら「僕みたいなのがついていたからだ」と言われるでしょう。すごくプレッシャーを感じましたし、余計に頑張りもしましたね。

それは先生もすごいですね

そうですよね。そういう広い考え方が木村さんにはありました。その頃、ロマンポルノでは、エロティックな事さえ押さえておけば、実践を通して新しいことにチャレンジしていいという土壌もあったんです。今はそういう場所がないのが残念です。

辞めたいと思ったことはありますか

1991~94に竹中直人さんの『無能のひと』や恩地日出夫さんの『四万十川』をやっていましたが、95年か96年ぐらいから映画の本数が減っていったんですね。「やりたい」という欲望がありながら中々プロデューサーのデザイナーに対する理解度が少なくて、かみ合わなくなったんです。自分たちは昔の輝かしい映画の世界を知っている時代とも違いますし、模倣出来るデザイナーとしての生き方やスタイルがない。それで現代に生きる新しいシステム、モデルを必要としたことがあって、今の西洋のプロダクションデザイナーシステムを知りたいと思ったんです。自分のデザイナーとしての役割を問い直したかった時です。

それで文化庁の在外研修にいらっしゃったんですね

行った事で個人的考え方の広がりがあったような気がします。何か励まされたところや勇気が生まれましたね。『エイリアン4』の現場にも就きましたが、直接的なことよりも一番学んだのは人間に対してどういう風に自分が接するべきか、本当に基本的な、単純な大切なことを学びました。親切や協力のあり難さとか。それに「共通であること」「違うこと」それぞれの良い点悪い点をはっきり認識出来た気がします。今の行動様式の基準になっているところもありますね。《日常や生活》から離れた事で「私に何が出来るか」と自分を考え直すきっかけになりました。そういう事の方が直接的なデザインの勉強よりも大きく学んだ事でしょう。

デザイナーに向いている人はどんな人ですか

色んなパターンがあるから、こう、とかは言えないですね。でもこう言ったアメリカ人がいます。一つは台本を読む文学的センスがあり、理解力があること。二つめは造形的センス。それから大道具さんやプロデューサーとのやりとりがありますから、中間管理職的な能力も必要です。外向的な性格でコミュニケーションが出来ると尚いいですね。予算的管理能力も必要かな。後は色んな物に対して興味を持てる好奇心が強いこと、それから歴史的知識や建築知識、文学的素養、アーティスティックなセンスも…ってそんな人いたらすごいですよね。いないんですよ!!そんな人。(笑)だけど本当に一番大切なのは《監督の為に働くことが出来る》ということ。監督の世界像をより具体的に実現するために仕事をするんです。

一番思い出深いことは何ですか

やっぱり「出会い」…人との出会いですね。一緒に物を創ること、とにかく映画を作るのって楽しいんですよ。(笑)映画というおもちゃに真剣に遊ぶんです。

プロダクションデザイナーって美術とどう違うんですか

それを話すと長くなります。(笑)1939年に『風と共に去りぬ』に、ウィリアム・キャメロン・メンジズというデザイナーがいたんです。彼は、監督が3,4人代わった混乱した現場にも関わらず、周到な絵コンテを用意して、ものすごくいい仕事をしたんです。メンジスは、第一回アカデミー賞で美術賞を受けた人でもあり、その後監督もしています。『風と共に去りぬ』で、プロデュ-サ-が「通常のデザイナー(アートディレクターというタイトル)以上の仕事をした」ということでプロダクション(映画)をデザインしたと評価され、初めて『プロダクションデザイナー』という名前をタイトルにつけたんです。それから、大作と呼ばれる作品でアートディレクターが沢山就いたとき、その上に立つ人をそう呼んだり、ユニオンに入っていない人間で特殊なアートの人が現場に就いた時などもそう呼ぶようになりました。『美術監督』という名前も明確な定義がある訳ではないんです。日本でも、そうつくと、大作っぽく聞こえるからプロデューサーがつける場合もありますし。それにタイトルは大事ですけれど、全てではないと思います。

最後に日活.comのみなさんにメッセージを

映画を育てるのは観客だと思っています。人に振りまわされるのではなく、自分自身の感性で好きなら好き、と言えるようでいて欲しいですね。人が見るから見るんじゃなくて、多様的な意味で。自分自身がどうしたいのか決めるという事が自分を分かるという事でしょうから。


インタビュー後記

当たり前の事かもしれませんが、ファイナンス用の絵を何枚か見せて頂いたとき、その絵の上手さにびっくりしました。台本をよんで「ここは6畳」「ここは洋室」「壁の色は何か」「ドアは引き戸か」全てをイメージし具体的に形にして提示するのです。斎藤さんは「オリジナルで考えるよりは皆が考えていることを具体化する」とおっしゃっていましたが『確固とした自分』を持っていなければアイデアも出ないのです。それを『画』に表す事で監督のイメージも又新しく広がる可能性が強いのだということ。本当に、才能がなければ出来ない仕事だと改めて思いました。