vol.14 宣伝スチール 目黒祐司さん

さて、今回は『宣伝スチール』の目黒祐司さんのご登場です。宣伝スチールというのは雑誌やパンフレット、劇場などで目にする作品の宣伝用写真のこと。映画とは違い、動かない一枚の写真で如何にその作品を表現するか、腕が問われます。そして、目黒さんはその道50年の大ベテラン!!今も現役で働いていらっしゃるんです。今でも「新人の目黒です」とおっしゃって、スタッフを和ませているんでしょうねぇ。


【主な参加作品】
1956年『洲崎パラダイス 赤信号』
1963年『いつでも夢を』
1965年『青春とはなんだ』    
1966年『愛と死の記録』  
1966年『風車のある街』 
1967年『陽のあたる坂道』
1979年『赫い髪の女』   
1985年『恋文』  
1985年『それから』  
1985年『タンポポ』
1986年『そろばんずく』
1986年『紳士同盟』
1990年『バカヤロー3!!へんな奴ら』
1994年『居酒屋ゆうれい』
1997年『愛する』
1997年『なにわ忠臣蔵』
2002年『海は見ていた』
他『ミナミの帝王』(ビデオシネマ)など多くを担当

目黒さんはどうやって映画のスチールの世界に入ったんですか

僕らの頃は「高橋写真」という宣伝の為の写真の会社があって、そこから派遣されて日活撮影所にいくようになっていたんですよね。昭和29年というのは戦争から丁度10年近く経っていて、不安定だけど建設的な時代でもあった。僕は直接戦争にも行っているし、過去の事を話せば勿論色々あったんだけれど、今ここでその事について話し始めても仕方ないからね。(笑)でも、人生は山あり谷ありだよ。

写真は小さいときから好きだったんだよね。当時はライカなんて買えないし…ライカ一台で家一軒が持てた時代だから。あの当時でライカは450円ぐらいしたけれど、大卒の給料が一ヶ月50~60円の時代だったからねぇ。

僕が最初に助手として就いたのが、川島雄三監督の『洲崎パラダイス 赤信号』だったんです。この前亡くなってしまった三橋達也さんや他に新珠三千代さん等が出ていたんですよ。

スチール写真を撮るのと映画の動画はやはり違いますか

違いますね。映画というのは連続した画が一つのオブジェの役割をしているけれど、写真(スチール)は固定された動かないものだから。本来は連続した映像のものを、凝縮した形で一枚の写真画面に表現するのが僕たちスチールの仕事だと思っています。

当時はまず台本をもらったら監督とプロデューサー、スチールマン、そして宣伝担当と一緒に「宣伝会議」を開きました。その作品をどんな風に作り、描いてゆくのかを相談する為なんだけどね。そして、それが決まったらセットを組んで俳優さんを絡めて撮影をしました。実際に映画の中にないシーンでも、その映画を象徴する画を撮って、それを宣伝材料として公開前に劇場に貼ったり、色々な場面で利用したんですよ。

最盛期で一年に映画を80本ぐらい作っていましたから、一ヶ月にだいたい8作品ですよね。僕もしょっちゅう2つの台本を持って仕事をしていたよ。(笑)当時は本当に活気があったからね。日活も一から新しい映画会社を始めるという意欲がすごくあったんだよね。

それは録音の橋本さんもおっしゃっていましたね。(vol.6参照)五社協定もあったので、もう戻る場所はない、ここで絶対やらなければ!!と決意していたらしいですね。日活はそういう意味で役者もスタッフも皆一つになっていたようです。

そうだね。皆がいわば、寄席集めの新人だったんですよ。だから皆で作っていくというエネルギーに溢れていたんでしょうね。

でも、僕は本当に日活が日本映画や映像文化に遺した功績は大きいと思います。それは表には出てこなくても、影で今も続いている。テレビ界に流れた日活出身の人に今も結構会う事がありますからね。(笑)当時は映像界を引っ張る…牽引力があったんですよ。

ロケーションの思い出ではどんなものがありますか

浅丘ルリコさんの100本目の映画『執炎(しゅうえん)』(1964年製作蔵原惟繕監督)を鳥取の方で撮影したんです。当時はホテルなんてなかったので、皆で分宿するんですね。でも、そこには旅館もない。(笑)それで、民家に泊まったり色々するんですが、僕と俳優の宇野重吉さんだけ地元のお寺に泊まったんですよ。その頃の田舎のお寺は勿論、宿泊出来るようになんてなっていませんからね。仏壇で一杯の部屋に寝かされて、宇野さんも「こりゃなんじゃい」(笑)なんて言っていましたよ。でも、形式ばらない良いところで、本当に面白かったですねぇ。

『戦争と人間』(1970年製作。山本薩夫監督)も日活撮影所に満州の大掛かりなオープンセットを建てて雪を降らせたり、冬の北海道で200頭の馬を集めたりして撮影した思い出があります。撮影用の卵が寒さの為に凍ってしまったりね…筑波に構えた攻防戦の爆破シーンでは10数台のカメラで撮影したりしました。

自分の人生を振りかえって、楽しい思い出があるっていうのは幸せなことだよね。淡々と生活して、年とってきて…大貧乏でもないけど、大金持ちでもない。(笑)淡々とそうやって生きてこれた事が幸せだって思うんだよね。没頭できる事が沢山あって。

スチールマンにとって大切な事はなんでしょうか

やっぱり期待に答えられる仕事をする事でしょうね。「この写真はこの映画の全てを物語っている」と表現出来ればいい。スチールは『期待感』だと思うよ。お客さんに対する作る側が作る期待感…この写真を見てお客さんは「面白そうだな」とか来るわけだから。やっぱり作る側の結束…信頼感は必要なんだよね。僕らの仕事は『限られた時間の中で一つのものを作る仕事』だから…その間は皆で一つになるんです。

スチールマンになるにはどうすればいいんですか

やっぱり学校に行く必要があると思うよ。まずは基本的な技術を習得しなければいけないからね。「スチール写真」というのはただ写真を撮れればスチールマンになれるわけではないんだよ。これはやってみると分かるんだけどね。役者の身やスタッフの身になって初めて分かる伝達の方法というのがある。

限られた時間の中で如何に自分の能力を発揮するか、ある時は強制的に役者を動かさなければいけないし、ある時は妥協しなければいけない時もある。いつも自分で気持ちを切り替えて「どうやって意図を伝えるか」考えますよね。自分から進んでやらないと物作りは出来ないと思うよ。ある時は喧嘩もしなくちゃいけないし…。スチール写真を撮る為には、どういう表現力を発揮すれば背景も人物も全てが一つになる事が出来るのか、限られた枚数の中で表現出来る事も大切ですしね。

カラー写真って出来てまだ50年も経っていないんですよ。そういう技術的な進歩については勉強しないと分からないからね。

今と昔は何か違いますか
追いつけないぐらいのスピードのある時代だとは思いますね。機械化、高度化したコンピューターの時代。人間がついていけないまま、消化されずにいつのまにかそれに追っかけられる生活になってきているとは思う。夢を持てないぐらいの早さで色んな事が進む。でも、僕らの時代が良かったのか悪かったのか簡単には言えないですけれど。そのうち本当に一人でのんびり山で本を読むとか出来る事が大きな希望になるかもしれないし。(笑)

星新一の世界みたいになるかもしれないですね。(笑)実際、デジタル化して便利になったはずなのに逆に細かい作業の為に昔より時間も拘束されたりしていますしね。便利のために始めたことが逆に家でも作業しなくちゃいけなくなったりする矛盾に陥ったり。…では、最後にメッセージをお願いします

僕は夢も映画も自然に発生するものではないと思っています。現実に作っていくから出来ていってるわけですよね。そして見る人が批判したり、色々感じて初めて映画は生きてくる。違う人同士皆で一つのものを作っている…考えている事も違うし、十人十色だなぁとつくづく思いますよ。その中で同化したりもするんだけど、やっぱり僕は主張を持っている絵描きさんの絵が綺麗に見えるように自分を見失わないで自分の仕事をきちんとしていけばいいんじゃないかな、と思っていますよ。時には意思を曲げてもいいしね。(笑)

インタビュー後記

現場で何より面白いのは色んな年代の人と一緒に仕事をすること。すっかり仲良くなって年齢を飛び越えて遊んだり、喋ったり、飲んだり、デートする。とにかくわくわくする事が大好き!(因みに目黒さんは75歳だけど…)

そう言えば、知らない間にスチールの方に写真を撮られている事がよくありました。あの時たしかに私悩んでいたなぁ、とか元気一杯だったなぁ…とか写真を通して当時の自分が分かって、びっくりした事があります。

写真って撮るの難しいですよね。「枠」を決めるのは自分で、その中に全てを閉じ込めて表現する。やって見るとほんと難しい。「上手く撮れた」と思って現像してみるとのっぺりしたつまらない写真になったり。腕も心も入ってないとダメ…難しい仕事だけど目黒さんは今も「幸せだなぁ」と思って仕事をしているそうです。

今では貴重な『それから』のパンフレット

伊丹十三監督作品『タンポポ』